太田述正コラム#8601(2016.9.10)
<ウィルソン流民族自決の愚かさ(その3)>(2016.12.25公開)
(5)トルコ
「著者の近代トルコの血生臭い生誕に関する諸章は、国民諸国家の暴虐的諸やり方の研究であり、第一次世界大戦がどれだけ1920年代にまで続いたかを示すものだ。
英国と米国の承認を得て、ギリシャは、スミルナ(Smyrna)(現在のイズミル(Izmir))に、元オスマントルコ市民達であるところのギリシャ正教キリスト教徒達と再統一するために、進攻(move)した。
この併合は、キリスト教徒達とイスラム教徒達との間の暴力的諸衝突の螺旋状深刻化(spiral)の火蓋を切った。
この諸出来事の中から、ムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal)「アタチュルク」の興隆が出来した。
ケマルは、協商諸国の平和諸提案の厳しい諸条件を拒否するために、アルメニア軍を押し返したオスマントルコ軍の諸残滓、及び、トルコのナショナリスト達を糾合した。
1921年に、ケマルは、トルコ西部のギリシャ軍に狙いを定めた。
更なる英国の激励を受け、ギリシャ軍はアンカラに向けて押し出した。
激烈な戦いにより、ケマルの軍はその将校団の大部分を失ったが、ギリシャ軍の前進は止まり、膠着状態になった。
ギリシャの兵士達は、「次第に組織的になっていった民族浄化の諸行為の形で」、イスラム教徒達に対してフラストレーションをぶつけた。
トルコ人達は、黒海沿岸に何世紀にもわたって住んできたギリシャ人達に対して報復諸殺害を行った結果、11,000人にのぼる人々が殺された。
報復は報復を呼んだ。
ケマルは、ソ連の諸武器の助けも借りて、1922年に攻勢に転じ、ギリシャ軍を西方へと押しやった。
彼らの撤退は、トルコ人の一般民衆に惨めさと死をもたらした。
この作戦はギリシャにとって大失敗(disaster)だった。
ギリシャにとって、近代における最悪の軍事的敗北の中で、ギリシャ軍は、23,000の死者と50,000人の負傷者を出した。
しかし、歴史の記憶の中に刻まれて残ったのは、スミルナの運命であり、そこでは、30,000人にのぼる、ギリシャ人達とアルメニア人達が殺された。
この希土戦争(Greco-Turkish War)<(注10)>は、著者が・・・辛辣に描写したところの、動態(dynamics)の極致(apotheosis)だった。
(注10)[Greco-Turkish War of 1919–1922。]「1919年5月15日に・・・<英国>の支援を得て休戦協定に違反して、小アジア西岸の都市イズミル・・・にギリシャ軍が上陸した。・・・
1920年8月10日、<協商諸>国とイスタンブル政府はセーヴル条約を調印した。この条約では東アナトリアにおけるクルド人自治区およびアルメニア人国家の樹立、東トラキアおよびエーゲ海諸島のギリシャへの譲渡、イズミルを中心とするアナトリア半島のエーゲ海沿岸地域はギリシャの管理区とした上で住民投票により帰属を決定することとなった。また、イスタンブルおよび両海峡周辺は海峡管理委員会の保護下に置かれることになった。(図示されたものが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84#/media/File:TreatyOfSevres_(corrected).PNG
に掲載されている。)
・・・<最終的に、>ギリシャ軍は、ムスタファ・ケマル・・・率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い、現在のギリシャ領がほぼ確定した。トルコではアンカラ政府の影響力が決定的となり、22年のスルタン制廃止、23年の共和国建国につながった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%8C%E5%9C%9F%E6%88%A6%E4%BA%89_(1919%E5%B9%B4-1922%E5%B9%B4)
⇒「第一次世界大戦後、パリ講和会議において、・・・ウィルソン・<米>大統領の提唱した「民族自決」<は、>・・・<欧州>列強諸国の植民地<をも対象としたものだったが>、戦勝国イギリス、フランスが反対し、[1919年6月28日に・・・調印されたヴェルサイユ条約<においては、>]自決権は、<欧州内>のみに留められた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B1%BA_(1920%E5%B9%B4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84 ([]内)
ところ、英米は、欧州内のギリシャが、トルコの、欧州内のギリシャ人居住地域の併合のみならず、欧州外のギリシャ人居住地域をも併合する方向性を認めるとともに、欧州外のアルメニア人居住地域のトルコからの独立、及び、同じく欧州外のクルド人居住地域のトルコからの独立の方向性、も認めた、というわけです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84
そして、その結果が、ギリシャ人、トルコ人、そして、アルメニア人三つどもえの民族浄化を含む地獄絵であった、ということです。(太田)
結局、ギリシャからイスラム教徒達が、そして、トルコからはキリスト教徒達が追放されることになった。
この民衆の強制的除去は、「奴ら」が国際的な法的制裁(sanction)を受けたものである、と<相互に>みなされた。
かかる諸措置(conventions)は、諸係争(contestations)だらけではあったものの、欧州の陸上諸帝国が何世紀にもわたってかなりうまく処理してきていたところの、抱懐すべき理想、及び、現実、たる、文化的、民族的、及び、宗教的多様性(plurality)、を、致命的なまでに(fatally)掘り崩してしまった。」(B)
(続く)
ウィルソン流民族自決の愚かさ(その3)
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