太田述正コラム#8625(2016.9.22)
<改めてフランス革命について(その6)>(2017.1.6公開)
 しかし、生命の最大の喪失はヴァンデで起こった。
 著者は、土地所有制度、宗教的諸要素、町と田舎の間の敵対的諸関係、そして、革命諸戦争のための大量徴兵に対する怒り、という、この地域特有の諸事情が全て組み合わさったところの、200,000人前後の諸死が帰結したこの紛争が点火されたこと、を説明する。
 人々をして、革命のために、或いは、革命に抗して、あらゆる危険を冒せしめたものは一体何だったのだろうか。
 「自由か死か–1793年<(注14)>の暴力的諸時においてどちらの側につくかを選んで」と題した魅惑的な章は、人々をして、どちらの側についていくか、はたまた、実に、身を屈めて嵐が過ぎ去ることを期待するか、の選択をさせるに至った多くの諸考慮を探索している。
 (注14)1793年から94年にかけての状況は次の通り。
 「1793年1月14日の国民公会は・・・ルイ16世の死刑を議決し<、>1月21日、・・・ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)で・・・処刑された。10月にマリー・アントワネットも・・・処刑された。・・・
 ルイ16世の処刑は<欧州>各国を震撼させ、・・・<英国>を中心に第一次対仏大同盟が結成され、各国の軍がフランス国境を越えた。革命政府は「30万人募兵」を布告するが、これへの反発からヴァンデの反乱が発生し、王党派と結びついて拡大した。テロリズムも続発し、国内情勢は不安定になっていた。
 これらの危機に加えて、<ジャコバン派>ジロンド派が下層市民の食糧危機に対して何ら政策を講じない事を宣言すると、下層市民の怒りが爆発する。1793年6月2日、下層市民の支持するジャコバン派<山岳派>が国民公会から<ジャコバン派>ジロンド派を追放し、ロベスピエールが権力を掌握した。
 ジャコバン派<山岳派>は独裁政治を開始する。・・・人権宣言<を無視し、>・・・公安委員会・保安委員会・革命裁判所などの機関を通して恐怖政治を実行し、反対派を次々とギロチン台に送った。・・・
 ロベスピエールは、・・・農民に対する土地の無償分配など<を行うとともに、>・・・1793年8月23日に「国家総動員」を布告して徴兵制度を実施し軍備を整え、諸外国の干渉戦争への反撃に成功した。・・・
 すでに参政権を得た下層市民、無償で土地を得て保守化した農民、さらにはインフレによる生活圧迫や恐怖政治によって自らの生命をも脅かされていた<人々>は、密かに<ロベスピエール率いるジャコバン派山岳派の>打倒を計画する。1794年7月27日<、>・・・国民公会<で、>・・・ロベスピエール・・・らを逮捕する決議が通過した。翌28日、ロベスピエールら22人は・・・処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD
⇒これまでに登場した史実と「注14」を踏まえて、フライング気味ですが、フランス革命の経過を一般化した形で記しておきます。
 [農奴達ないし小作人達が担う農業を中心とした経済に立脚した専制政治を打倒して、さしあたり、「解放」された農民達が担う農業を中心とした経済に立脚した非専制政治を実現すべく革命が起きた場合、その革命を成功させるために、「解放」され生産手段たる農地を与えられた(元農奴達ないし元小作人達たる)農民達は、(その農民達を含むところの、)選挙権を与えられた国民一般とともに、前者は財産、後者は権力、の分け前にあずかった結果として、保守化し反革命に転じてしまい、革命当局による徴兵や徴税を極力回避しようとし、その結果、革命の一層の推進や革命の内外の敵からの防衛が困難になってしまうので、それに対処するため、革命当局は、内外からの脅威を実態以上に喧伝しつつ専制政治に回帰する。]
 このフランス革命の時の教訓から、ロシア革命の際も、また、中共建国の際も、一旦農民を「解放」しつつもすぐに農地を取り上げるために農業集団化を行い、また、国民に選挙権を実質的に与えないままにする、という方針がとられたのでしょうね。(大田)
 著者は、「鍵となった諸決定要素は物質的なものだった…が、感情的(affective)なもの絡んでいた」、ということを示す。・・・
 友情諸網と家族的諸忠誠とは重要な諸要素だったが、それと同時に、職業的、近隣的、宗教的、そして、地域的、な諸アイデンティティが、全てそれぞれの役割(part)を演じた。
 この革命に影響を受けなかった者はおらず、「誰しもが諸選択を行うことから逃げることはできなかった」。・・・
 <このように、>個人的諸選択を重視することで、著者は、この革命によって巻き起こされた騒動の核心へと到達する。
 すなわち、「1793年央には、かかる諸決定は生死に関わる問題になっていた」、と。・・・
 革命のスローガンたる「自由か死か」に表現されている、このジレンマが、著者にこの章の名前を付けさせた。
 革命家達は自由を欲したが、この革命が生き延びることを確保するために彼らは自分達自身の諸命を犠牲にする用意がある、と宣言した。
 革命の指導者達は、未曾有の諸出来事の継起によって、混乱し、狼狽し、畏怖し、叩き潰され、かつ、このように激しい水準(pitch of intensity)において生きていく努力によって、徐々に消耗して行った。
 皮肉にも、彼らのうちの多くは、実際、自分達自身のこの革命へのコミットメントを、自分達自身の諸命<の提供>という形で支払った。
 この革命の最も悩ましい諸疑問の一つは、どうして、人道的諸意図で始まった運動が、3年後には、「恐怖政治」として知られるところの、国家主宰の暴力に訴えるに至ったのか、だ。
 著者は、諸事情、とりわけ戦争、の圧力がこのプロセスにおいて中心的であった、という、多くの歴史学者達の見解を採用している。
 しかし、彼は、外国の諸軍が演じた役割だけにその分析を限定しない。
 すなわち、彼は、同時に、革命家達の諸感情(emotions)が彼らの意思決定に影響を与えた諸形(ways)を探索してきたところの、歴史学者達による最近の諸解釈を募る。
(続く)