太田述正コラム#0423(2004.7.27)
<悪夢から覚めつつあるドイツ(その2)>

 ア ヴィルヘルム・グスタフ号事件
転機になったのは、ドイツの左翼にしてノーベル賞作家のギュンター・グラス(G?nter Grass。1927年??)が2001年に上梓したIm Kerbsgang(Crab Walk)という小説です。グラスはこの小説の中で、迫り来るソ連軍から逃れようとしたドイツの婦女子、老人及び傷病兵を乗せたヴィルヘルム・グスタフ(Wilhelm Gustloff)という、非武装で護衛もついていない船(逃亡兵も乗っていたという説もある)が1945年1月にバルト海でソ連の潜水艦に撃沈され、一隻の船が生じた死者の数としては史上最悪の9,000名の死者を出した事件(生存者1,200名、うち子供100名)を取り上げたのです。
ドイツの高級週刊紙シュピーゲル(Der Spiegel)のこの事件の連載がそれに続きました。
ドイツで55年間にわたって誰もこの事件を取り上げようとしなかったのは、ドイツの一般市民もナチスの蛮行に責任がある、とドイツ人が自覚していたからです。ナチスによって虐殺された人々個人個人への賠償に戦後ドイツが応じてきたのもかかる共同責任意識のためなのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,2763,1011591,00.html(2003年8月3日アクセス)、http://www.csmonitor.com/2003/0923/p06s01-woeu.html(2003年9月23日アクセス)、http://www.nypress.com/15/9/taki/.cfm(7月26日アクセス)、及びhttp://www.adelaideinstitute.org/Holocaust/germanvictims.htm(7月26日アクセス)による。)
 このドイツでの動きに対しては、さすがに関係諸国から非難の声はあがっていません。

イ 都市焼夷弾爆撃
ドイツの歴史家のユルグ・フリードリッヒ(J?rg Friedrich。1944??)は、2002年にDer Brand(The Fire)という歴史書を、そして2003年には Brandst?tten(Fire Sites)という写真中心の本を上梓しました。
これらの本の中でフリードリッヒは、先の大戦中にドイツの都市に対して英空軍が行った焼夷弾爆撃(fire-bombing)を批判しています(注1)。この爆撃によって、60万人のドイツ市民が命を落とし、そのうち76,000人は子供だったとし、例えば1943年のハンブルグの爆撃は、同市が潜水艦製造の中心都市だったことから正当性があるかもしれないが、戦争末期の1945年1月から5月にかけて行われた都市爆撃、特に(もはやめぼしい目標がなくなったため、)主として小都市を対象にした都市爆撃は、何の意味もない殺戮だったと批判しています。前ドイツ首相のヘルムート・コールはフリードリッヒに声援を送る一人です。
(以上、http://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1068437,00.html(2003年10月22日アクセス)による。)

(注1)都市爆撃を開始したのはドイツの方が早く、スペイン戦争中の1937年4月にはスペインのゲルニカ(Guernica)市を爆撃したのが世界初。ドイツは1940年の秋から英国の都市爆撃を始め、14,000人の英国市民が命を落とした。英国が焼夷弾爆撃(絨毯爆撃)を編み出して「反撃」に転じたのは1943年の夏からだった。結局、このような一般市民を対象にした攻撃は英独いずれにおいても一般市民の士気を全くくじくことができず、いたずらに彼らに苦しみを与えただけに終わった。(以上、アデレード・インスティチュート前掲サイトも参照した。)
    ちなみに、ドイツの戦争遂行基盤を破壊することを目的として実施された英米空軍による工場への爆撃(これも都市爆撃の目的の一つだった)も、ほとんど効果をあげられなかった(若き日にドイツ爆撃の効果を調査した米経済学者ガルブレイスの言。典拠失念。)

 これに対しては関係諸国から、ドイツはソ連だけで17,000もの町村を戦車と火砲で灰燼に帰せしめたではないか、との批判の声があがっています。
 また、戦争末期の爆撃についても、1945年2月14日にはまだ、ユダヤ人を強制収容所に運ぶ列車が運行されていた(これが最後)といった点を挙げて、都市爆撃の正当性を改めて強調する声があがっています。
 (以上、アデレード・インスティチュート前掲サイトによる。)

 ところで、英国の懐の広さを示すのが、英国における対独都市焼夷弾攻撃の不人気です。
早くも先の大戦中に、1944年2月13日の(めぼしい軍事施設等がなかった)ドレスデンの爆撃で少なくとも35,000人の市民が死亡したことをとらえ、英国の都市焼夷弾爆撃による一般市民殺戮は戦争犯罪であると英上院で発言した議員(司祭)がいました。
 当時の英国の首相ウィンストン・チャーチル自身、ドレスデン爆撃の6週間後に空軍参謀総長に対し、「<市民の>恐怖を募らせるためだけにドイツの都市を爆撃する政策は改められるべきだ。・・私はもっと軍事目標に対して正確に集中攻撃すべきだと思う。」というメッセージを送っていますが、政策が改められた形跡はありません。
 チャーチルの下で英国がドイツに対して行った都市爆撃に戦後の英国世論は批判的であり続け、その責めを都市焼夷弾攻撃の考案者のアーサー・ハリス(Arthur Harris)空軍中将が一身に背負う形になって現在に至っています。
(以上、http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,2763,1160680,00.html(3月3日アクセス)による。)
ドレスデンが灰燼に帰して以来、同市のシンボルである教会(Frauenkirche)は、東独政府によって英国の侵略性を示すものとして瓦礫になったまま放置されてきましたが、ドイツ統一後、ようやく再建に着手され、今年教会のてっぺんに金の十字架と宝珠を取り付ける運びになりました。ところが、この十字架等の資金は英国市民の募金でまかなわれ、しかも十字架等をつくった金工は父親がドレスデン爆撃に参加した操縦士であり、そのお父さんから「ドレスデン爆撃は道義的に許されないことだった」と言われて育った英国人でした。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3830135.stm。6月23日アクセス)

 (注2)このような英国政府ないし英国民の態度に比べて、米国政府ないし米国民の東京大空襲等の対日焼夷弾爆撃(戦略爆撃)や広島・長崎への核攻撃による日本の一般市民虐殺についての無反省な態度は、米国がbastardアングロサクソンたる証左と言えよう。先の大戦中にドイツと違って日本はホロコースト的蛮行を行っていないにもかかわらず、米国が日本に対して一方的に戦争犯罪を犯したこと、しかもこれについて米国政府関係者がマクナマラを除いて誰一人これまで遺憾の意を表していない(コラム#122、123)こと、に怒りを禁じ得ない。それにしても、一人のヘルムート・コールすら生み出していない戦後日本の政界を、われわれはどう考えるべきだろうか。

(続く)