太田述正コラム#8645(2016.10.2)
<またまた啓蒙主義について(その4)>(2017.1.16公開)
 (2)欧米哲学者
 「若干の人々にとっては驚くべきことに、著者は、自身と社会についての新しい科学的かつ宗教的諸観念が示唆する諸点に関する問いかけを行った「これらの男達は全てアマチュアだった」と筆者は記す。」(C)
 「今日では、我々は、哲学を専門化した学問的追究であると考えがちだ。
 すなわち、哲学者を哲学の教授である、と・・。
 しかし、著者が取り上げている近代哲学の創建者達の一人として、そんな肩書に合致した者はいない。
 ルネ・デカルト(Rene Descartes)はx軸とy軸からなるデカルト座標系(Cartesian coordinate system)を発明し、ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Leibniz)は(アイザック・ニュートン(Isaac Newton)とほぼ同じ頃に、しかし、独立して、)微積分学を発明した。
 何人かは専門職に就いていた。
 バールーフ・スピノザ(Baruch Spinoza)は光学機器の諸レンズを磨いたし、ジョン・ロック(John Locke)は医者で外交官だった。
 そして、何人かは、デイヴィッド・ヒューム(David Hume)のように、文筆諸著述家達だった。
 ヒュームは、生きている時は、その哲学的諸著作よりも、「イギリス史(History of England)」の方でもって、より良く知られていた。<(注4)>
 (注4)現在でも、大英図書館、ケンブリッジ大図書館等では、ヒュームを歴史学者に分類している。
 なお、1754年から61年にかけて出版された、この6巻からなる歴史書は、ベストセラーになり、ヒュームは、そのおかげで長年の懸案であったところの、財政的自立を果たした。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_History_of_England_(Hume)
 要するに、通常、彼らは様々な範疇が重なり合っていた<人々だった>のだ。」(B)
 「<すなわち、>彼らは、諸大学から独立した形で働き、主流の諸見解を批判し学問的既製服や新アリストテレス的教義主義から思想を解放したところの、雇われていない(freelance)哲学者達だった。
⇒古典ギリシャ哲学は、「知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが・・・「哲学」の範疇に含まれてい<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
ことからすれば、「哲学<が>専門化した学問的追究」でなかったところの、近代英国・欧州における著名「哲学者」達は、古典ギリシャ時代の哲学者と同じだった、と言える反面、古典ギリシャ時代の最も著名な哲学者であったプラトンとアリストテレス・・ソクラテスは自身の手になる著作を残していないので省く・・は、当時の「大学」である、アカデメイア(プラトン、アリストテレス)、ミエザの学園(アリストテレス)、リュケイオン(アリストテレス)の「教授」であった(前掲)ので、近代英国・欧州における著名「哲学者」達の在野性はそれとは対蹠的であった、と言えそうです。
 なお、マケドニアにアリストテレスが設置したミエザの学園では、彼がそれまで家庭教師を務めていた「アレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が<そ>の学友として多く学んでおり、」(上掲)、国王になってからのアレクサンドロスの大遠征に従軍し、アレクサンドロス死去後、その帝国を分割して統治したマケドニアの貴族達の多くはアリストテレス哲学を身に付けていたと考えられ、それはその子孫達にも受け継がれて行った可能性が大です。
 アリストテレスの形相(form)・質料(substance)論
https://www.issj.net/mm/mm0512/mm0512-3-3q.html
等を身に付けていたとすれば、いや、恐らく身に付けていたであろうところの、ミリンダ(メナンドロス)王が、論理に一貫性・厳密性を欠くナーガセーナごときに、哲学的論戦で負けるはずがない、という指摘(前出)に説得力がある所以です。(太田)
 彼らは、全員が危険な思想家達であり、その宗教、政治、そして道徳に関する急進的諸見解が故に、出版したものによって、いつ亡命、投獄、或いは殺害されるか分からなかった。
 スピノザは、アムステルダムのイベリア半島出身ユダヤ人系の(Sephardic)シナゴーグから、ユダヤ教の破門に相当する処分(cherem)を受けた。
 ロックは、その『統治二論(市民政府二論=Two Treatises of Government)』の著者であることを隠し、何年もの間、自ら亡命生活を送った。<(注5)>
 (注5)ロックは、「1680年ごろ、トーリー党の精神的支柱となるロバート・フィルマーの「家父長論」が出版され、これに対する反論として「統治二論」を執筆する。
 1682年に・・・<ロックが>ブレーン<であったところの、>ホイッグ党の領袖である・・・シャフツベリ・・・伯爵・・・が反逆罪に問われオランダに亡命したときはロックはイギリスにとどまったものの、王からの迫害を恐れ、翌1683年には・・・オランダに亡命した。同年シャフツベリは死去したものの、ロックはユトレヒト、アムステルダム、ロッテルダムと転居しながら1689年まで亡命生活を続けた。名誉革命が1688年に起きると翌1689年に帰国し・・・た。
 ロックの代表作である『統治二論』(『市民政府二論』)および「人間悟性論」<等>・・・は、帰国したその年、1689年に出版されたものである。特に統治二論は名誉革命後のイギリスの体制の理論的な支柱となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
 ヒュームは、その、『自然宗教に関する対話(Dialogues Concerning Natural Religion)』<(注6)>を、死後に出版することを選択した。
 (注6)「一神教の迷信や狂信により差別や戦争などの不幸な歴史が繰り返されていることに言及」している。
http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1110.html
 なお、本筋から離れるが、上掲に、「ヒューム・・は、アフリカの黒人を白人より劣るとして・・いる<し、>・・・モンテスキュー<は>、とうてい黒人は人間とは思えないなどと・・・<し>ている」、とあるところ、前者は観察に根差した指摘であったのに対し、後者は思い込みに基づく非科学的偏見であった、と現時点では明確な評価が可能だ。これぞ、文明イギリス人化したスコットランド人知識人と、野蛮欧州人たるフランス人知識人の文明的落差を象徴している、と言えそうだ。
 そして、ルソーは、欧州大陸で迫害された時、イギリスへ逃亡した。
 今日とは違って、形而上学は安全どころではなく、しばしば、涜神ないし異端として非難されたのだ。」(F)
(続く)