太田述正コラム#8655(2016.10.7)
<またまた啓蒙主義について(その9)>(2017.1.21公開)
スピノザの汎神論の、より予期せざる必然的結果(corollary)は、それが、自由意思、ないしは、あらゆる意味での偶発(contingency)、の可能性を消去してしまうことだ。
結局のところ、仮に全てのものが神であって、その神が絶対なのであれば、それが行う形(way)と異なって何かが起きうるなどということはありえないからだ。
「仮に我々がこの世界がどう機能(work)しているのかを十分に知っていたならば、我々は、数学で取り扱われるもの全てがそうであるように、全ての諸物(things)をちょうど必要なだけ発見することだろう」、というわけだ。
<しかし、>人間の知識の極めて多くに疑問が投げかけられるに至っていた時にあって、かかる、数学的確実性は人を引き付けるものがあった。
スピノザは、「三角形について我々が持っている類の知識を神について」求め(longed)、彼の『エチカ』を、諸公理と諸演繹的結論(deductions)の序数を付されたリストの形(form)・・ユークリッド(Euclid)が幾何の論文で採用した形・・で書いた。
⇒私のホンネとしては、もうここのあたりで、カール・ポパーの下掲のスピノザ評価を引用して、スピノザの話を打ち切りたいところなのですが、もう少し続けましょう。↓
「カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義<(注9)>的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、<仮>になんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した。また、スピノザの幾何学的方法・・・と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
(注9)本質主義(essentialism)とは、「本質(事物の変化しない核心部分)を自立的な実体、客体的な実在物であるとみなした上で、個別の事物は必ずその本質を有し、それによってその内実を規定されている、という考えをいう。
さらに具体的に、社会科学や政治的な議論において、一定の集団やカテゴリーに、超時間的で固定的な本質を想定する立場を指していうことが多い。
事物とその本質との関係は客観的で固定的なものであり、個物は本質の派生物、あるいは複製としての側面を持つものとみなされる。
また、すくなくとも論理的な順序としては、本質が現実存在に先立つものとされ、本質が現実存在から事後的に抽出・構成されるとは考えない。事物とその本質との関係はアプリオリなものであるから、事物が現実に存在する文脈からは独立しており、その事物がその事物である限り、その本質は同一不変であるとみなされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
さて、ここでまたもや本筋からはずれますが、ポパー(Karl Raimund Popper。1902~94年)は、両親の代でルター派に改宗したウィーンのユダヤ人の家庭に生まれ、1937年にニュージーランドに「亡命」し、戦後は英国に定住、帰化した哲学者であるところ、私が最もイギリス人らしい哲学者であると見ている、バートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell。1872~1970年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB
のように、カントをも、哲学的観点から排撃
http://russell-j.com/cool/ICHIRYU2.HTM
して欲しかったのに、そうしなかったのは、ポパーが、「本質」的に欧州文明の人だからでしょう。
私が、カントを全く評価していないのは、既に何度か記したことがありますが、(ラッセルのように哲学的観点からではなく、)彼の人種主義の故です。↓
「黒人達(Africans)は中身がなくて(vain)馬鹿である(stupid)という主張(claim)に加えて、カントは、彼らはとりとめのない(trifling)諸感情を抱くことができるだけで、どうやったら奴隷になるかを学ばせること以外のあらゆる形態の教育が不可能であり、かつ、「活動への駆動力」と「自己動機付けを行い、成功を収める、ための精神的諸能力」を欠いている、と主張(argue)した。
<また、>カントは、ヒュームを引用して、黒人達(Negros)は、一人たりとも、芸術や科学において、諸才能を示したり称賛に値する質に達したところの何物かを提示したことがない、と記した。」
http://www.academia.edu/1802951/Kants_Racism
ここから、カントは、(ヒュームとは違って、)モンテスキュー同様、黒人を人間とは見ていないところの、最も醜悪な類の人種主義者である、と私は考えるものです。
この際、もう少し詳しく説明しておきましょう。
カントは、「黒人との間で子供を作ることは回避すべきだとし、黒人達(Moors)を鞭打つ(whip)最善の方法を論議し、黒人達(blacks)は「お喋り好き過ぎるので、諸鞭(thrashigs)でもって互いに遠ざけておかなければならない」、と主張<するとともに>、・・・三つの異なった著作で、黒人は、概ね全ての諸人種中最低の存在である、と主張し、黒人達を「悪い人種」、白人達を「良い人種」と述べ、白人種は「全ての諸インセンティヴと諸才能」を備えていると主張し、白人達は「常に完全性へと前進する唯一の人種である」と感じる」(上掲)と宣った人物であり、そんな「カントは、地理、及び、気候等の諸条件に応じて発展した人種は4つしかないが、それらは、全て、元をただせば、白い肌とブルネットの髪の「幹種(stem species)」から分化した、と主張」(上掲)することによって、「今日まで<欧米において>生き残っているところの、人種に関する、本質主義的にして生物学的な・・・<そして、>階統的な・・・見解を構築した・・・最も早い人物群の一人」(上掲)なのです。
黒人種の平均的IQが諸人種中最低である、という一点を除き、ことごとくが誤りであることが現在判明してるところの、根拠レスな偏見をこれだけ書き散らかすような人物は、それだけで、哲学者の資格などないし、その偏見の内容からして、カントは、到底、自身が自負するところの道徳哲学者ではありえない、というのが私の見解なのです。(太田)
(続く)
またまた啓蒙主義について(その9)
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