太田述正コラム#0426(2004.7.30)
<悪夢から覚めつつあるドイツ(その5)>

 カ ヒットラー映画
ドイツではつい最近まで、ヒットラーが登場する映画やTVでは、ヒットラーだけが画面に映し出されなかったり、静止画面的に登場したり、後ろ姿が写されたりしたものです(注7)。

(注7)少し前まで、明治天皇等が日本の映画に登場する時も同じような扱いだったことを思 い出す。もっとも、その理由はヒットラーの場合とは正反対だった。
 
ヒットラーは先の大戦(の欧州バージョン)を惹き起こし、ホロコーストという蛮行を犯しました。そんな人間を画面に登場させたら、それはヒットラーを人間扱いすることであり、ヒットラーに感情移入する(sympathize)ことを意味する、というわけです。
ところが、今年末から来年にかけて、現在制作中のヒットラーを主人公にした一本の映画と一本のTVシリーズ(ドキュメンタリータッチの三部作)が、どちらも著名なドイツ人監督の手で世に問われようとしています。
ヒットラーの取り巻きのみならず、先の大戦の関係者が殆ど死に絶えた現在、ようやくヒットラーに係る禁忌が打ち破られようとしているのです(注8)。
(以上、BBC上掲、及びhttp://www.guardian.co.uk/germany/article/0,2763,1253953,00.html(7月5日アクセス)による。)

(注8)しかし、あらゆる国でヒットラーの著書「我が闘争(Mein Kamps)」の翻訳書が売られているというのに、ドイツでは依然この本は禁書に指定されたままだ。

3 感想に代えて・・英独仏の不思議な関係
 (1)英独の愛憎関係

 それにしても、英独、仏独の関係は摩訶不思議なものがありますね。
 英独関係をまず俎上に乗せてみたいと思います。

  ア ナチス以前
 イギリスはアングロサクソンが持ち込んだゲルマン文明に原住民が染まり(コラム#379)、ゲルマン性を最も純粋な形で受け継いだ国です。他方、ドイツはローマ文明に染まってしまったけれど、ゲルマン人の「人種」的純粋性を維持し続けた国です。
 このことから、例えばイギリス人は戦争生業観念を後々まで受け継ぎ(コラム#41、51、72、82、125、307、399)、他方ドイツ人は卓越した軍人であり続けました(注9)。

 (注9)米国の計量戦史学者のデュプイ(Trevor Nevitt Dupuy)は、中世以来の世界の主要国兵士が参加したほぼすべての戦闘を計量的に分析した結果、火力点数の違いをならせば、つまりは武器等の条件を同じにしてみれば、ドイツ人兵士が世界で最も強いことを明らかにした。イギリス人兵士の強さはそれに次ぐ(典拠失念)。

「最近」の英独の特殊関係は、ハノーバー選帝公が英国王(及びアイルランド国王)を兼務してジョージ1世(英語がしゃべれなかったので有名。王妃はドイツ人)となった1714年から始まります。
その子のジョージ2世(王妃はドイツ人)(注9)、曾孫(ひ孫)のジョージ3世(王妃はドイツ人。彼の父親の伴侶もドイツ人)、玄孫(やしゃご)のジョージ4世(王妃はドイツ人)、同じく玄孫でジョージ4世の弟のウィリアム4世(王妃はドイツ人)、とハノーバー家による英国統治が続き、ウィリアム4世に正統な男子跡継ぎがいなかったため、彼の姪のビクトリア(父親の伴侶はドイツ人)が1837年に英国女王となると、男系しか王になれないハノーバーの国王はウィリアム4世の弟が継ぐこととなり、ここに英国とハノーバーの同君連合は解消します。しかし、ビクトリアは従兄弟でザクセン公爵のアルバート(Francis Charles Augustus Albert Emmanuel, of the Saxe-Coburg-Gotha branch of the House of Wettin。1819??1861年)と結婚し、ドイツとの縁はむしろ深まるのです。

(注9)ジョージ2世の妹はプロイセン王に嫁ぎ、跡継ぎを生む。それが後のフリードリッヒ大王だ。そしてプロイセンが後にドイツを統一してプロイセン王がドイツ皇帝となるが、最後のドイツ皇帝のウィルヘルム2世はビクトリアの長女の子供だ。何と英独の因縁は深いことか。

(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3842039.stm(7月20日アクセス)、http://www.fact-index.com/g/ge/george_i_of_great_britain.html以下、及びhttp://www.geocities.com/jesusib/QueenVictoria.html(いずれも7月29日アクセス)による。)

 アルバートは英国王でこそなかったけれど、(伴侶ビクトリア女王を通じて)最もイギリス(英国)に大きな影響を与えたドイツ人だったと言ってもいいでしょう。
 彼は王室が英国の政治に容喙しない慣行を確立しました。
 また彼は、英国朝野の反対を押し切って1851年のロンドン大博覧会を企画、実施し、大成功をおさめました。英国の産業家達に工業デザインの重要性を説き、イギリスの陶器生産を今日のような隆盛に導いたのも彼でした。演説、執筆を通して英国の科学の振興等にも貢献しました。
彼がいなければ、英国経済はビクトリアの在位中にも「沈没」していたかもしれません。
彼は農業経営の才にも優れ、彼らの長男の英国皇太子領(Duchy of Cornwall)はそれまでの5倍近くの収益を生み出すようになり、ウィンザーに設けた農場は、英国の農場のモデルとなりました。実力でケンブリッジ大学の総長にも選出されています。
 (以上、http://www.fact-index.com/p/pr/prince_albert_of_saxe_coburg_gotha.html(7月29日アクセス)による。)

(続く)