太田述正コラム#8699(2016.10.29)
<プーチンのロシア(その8)>(2017.2.12公開)
 (7)留保
 「<ここで>警告の言葉<を記しておく>。
 ロシアの政治家達は、通常、彼らが信じているからというよりは、彼らの諸キャリアの特定の諸段階で役に立つから諸イデオロギーを採用する。
 ドゥーギンの修正ユーラシア主義は、ウクライナでの紛争に欧米の諸制裁が組み合わさったものにプーチンが直面している間、そして、彼が米国によって押し付けられたところの、国際諸問題の「<米国>一極」モデルに挑戦している間、プーチンの役に立つ。
 そうである以上、プーチンが、ソ連を「ユーラシア」として回復しようと欲している、ということには自動的にはならないのだ。
 仮に、後に、彼が、イスラム主義テロを敗北させるため、或いは、紛争が手に負えなくなってしまうのを防止するため、に、ロシアが欧米と、より緊密に行動する必要がある、と決した場合は、ユーラシア主義に係る諸言葉の綾は、彼の講話の中から落とされることになるだろう。」(A)
 「ロシア観察者達の間で最も議論が分かれているのが、<プーチンの>体制を真に動機付けているいるものは何か、についてであることは疑いの余地がない。・・・
 この本は、二つの主要な要素群を持っている。
 その一つは、ロシアの哲学的風景のこの特異なる部分(corner)<・・ユーラシア主義・・>に係る学術的な歴史であり、主として、偉大なる反スターリン主義詩人たるアンナ・アフマートヴァの息子であるとの罪で強制労働収容所に閉じ込められた<(注16)>レフ・グミリョフのような、悲劇的諸人物が取り上げられている。
 (注16)原文は’consigned’だったが、’confined’のミスプリであろう、と判断した。
 彼やその他の人々が信奉(espouse)したところの、矛盾のある、気まぐれで、概ね典拠のない、諸教義の意味を理解するのは容易ではない。
 彼やその他の人々の場合、ユーラシア主義は、恐らくは、政治思想のまともな学派としてよりは、トラウマに対する反応として最も良く理解されるのではないだろうか。・・・
 <このユーラシア主義なるもの>は、「良く言えば偏向しており(tendentious)、悪く言えば全くの思い付き(contrived)」なのだ。」(D)
 「2013年に、・・・プーチンは、ロシアを、「新しい世紀において、人々[と]歴史的ユーラシアのアイデンティティ、を、保全する(preservation)プロジェクトであるところの…文明的国家」、と呼んだ。
 しかし、ドゥーギンの諸観念は、この<プーチン>体制の支配(ruling)イデオロギーになったとは到底言えない。
 プーチン自身、ナショナリストであるかもしれないけれど、主義者(ideologist)ではない。
 すなわち、ナチスドイツとファシストのイタリアでそうであったような、体制に織り込まれた、そして、一人の指導者が発出する、漠然とした(misty)諸観念の一揃いなど<現在のロシアには>ないのだ。
 プーチンは、彼が役立つと思った場合は諸観念を拾い上げ、それらの価値がもはや明白ではなくなった場合は捨て去ってきた。
 ドゥーギンは、ドゥーギン及びドゥーギン的な人々が推し進めてきたところの、ウクライナから切り取られたロシアの州である、「ノヴォロシア」の創造に彼が失敗した場合は、それが躓きの石になる(get cross)。
 プーチンは責任を負っており、これまでのところ、いつ止めるべきかを過たなかってはいない。
 <いずれにせよ、>随分と叫んではいるが、ドゥーギンは取るに足らない(marginal)人物に依然としてとどまっている。
 しかし、ドゥーギンが語るところの、この新しいロシアのナショナリズム<自体>は、全くもって偽りのないものだ。
 著者は、そのルーツ、その欧米に対する熱情的な偏見(bias)、そして、ロシア人以外であるところの我々が今対処しなければならないロシアの現実(reality)、に、かなりの光を照射している。
 よって、彼のこの本は、読まれる必要があるのだ。」(E)
(続く)