太田述正コラム#8717(2016.11.7)
<レーニン見参(その3)>(2017.2.21公開)
 「レーニンは、彼の妻のクルプスカヤ(Krupskaya)<(注3)コラム#7647)>、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev)<(コラム#1779、3252、4508、4965、5750、8577、8628)>、カール・ラデック(Karl Radek)<(コラム#3461、8573)>、そして、28名の他の大人達と2名の子供達と共に、復活祭の月曜日にチューリッヒを出発した。
 (注3)ナデジダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤ(Nadezhda Konstantinovna Krupskaya。1869~1939年)。「1869年、サンクトペテルブルクに・・・生まれる。夜間学校で教鞭をとりながら参加していたマルクス主義思想の研究サークルで、1894年にレーニンと知り合う。1896年に煽動罪に問われ逮捕。流刑<中の>・・・レーニンと再会し、1898年7月に結婚。・・・
 十月革命の後、クルプスカヤは夫レーニンより教育人民委員会の委員に任命される。ピオネール運動を組織するなど・・・大きな成果を挙げた。検閲と反宗教宣伝にも熱心に携わった。特に古儀式派に対しては厳しい態度をとっており、「富農階級との闘争とはすなわち古儀式派との闘争である・・・」というテーゼを打ち出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%87%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%97%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A4
 両親とも貴族。高卒。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nadezhda_Krupskaya
 8日かけ、いくつかの列車に乗り換えて、彼らはペトログラード(Petrograd)<(注4)(コラム#1990、2069、3377、4600、4653、5349、5272、5740、8160、8577)>のフィンランド駅に、騒々しい歓迎に迎えられて到着した。
 (注4)1914年から24年まで、わずか10年間の旧(現でもある)サンクトペテルブルク改めペトログラードだが、当コラムに、今回を含め、既に11回も登場している!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
 そこから、レーニンは、歓声の中、装甲車両の上に乗って街々を通ってボルシェヴィキの本部へと連れて行かれた。」(D)
 「1917年のレーニンとロシア人亡命者達からなる小さな一団は、4月の8日間の鉄道とフェリーによる難儀な旅行で、スイスから、ドイツ、スウェーデン、そして、フィンランドを経て、ロシアへと帰り着いた。・・・
 著者は、古文書類から、我々がこの旅行について既に知っていることを実質的に変更するような新事実を発掘したわけではないが、本件に対して、学者的な深い知識と生き生きした語り口のスタイルを持ち込んだ。
 この著作は、啓蒙的であると同時に娯楽的でもある。」(E)
 (2)背景
 「レーニンは、チャーチル(Churchill)が記したように、帝政ロシアの「復讐(Vengeance)」だった。
 ドイツは、レーニンのロシアへの到着は、彼が、帝国主義者達/資本主義者達の戦争努力をしばしば誹謗していたことから、戦争の早期終結を意味しうると考えた。
 しかし、実際には、彼らはものの見事に間違っていた。
 というのも、ボルシェヴィキ達は、彼らの専制的な諸前任者達同様に軍国主義的であることが判明したからだ。」(B)
 「駐デンマーク独大使のフォン・ブロックドルフ=ランツァウ(von Brockdorff-Rantzau)<(注5)>伯爵の指揮の下、平和攻勢が既にロシア人達に対してかけられていた。
 (注5)Ulrich Graf von Brockdorff-Rantzau。1869~1928年。「ヌーシャテルおよびフライブルクで法学を学び、・・・法学博士号を取得した。1891年から1893年は兵役に従事。負傷したため少尉で退役した。1894年にドイツ外務省に入省。・・・<1897~1901年の間、サンクトペテルブルク独領事館に勤務し、>・・・1912年、駐デンマーク大使に任命され、第一次世界大戦終了までその任にあり続けた。・・・1918年12月、・・・ヴァイマル共和国の国務長官に就任、1919年2月からはそのままシャイデマン内閣の外務大臣に留任した。・・・ドイツに対して過酷な内容・・・であったヴェルサイユ条約への調印を「ドイツに対する犯罪行為」として拒絶し、同年6月にシャイデマン内閣とともに総辞職した。その後2年間は新生の共和国の外交問題にたびたび声明を出し、和平条約の再交渉を要求していた。ドイツとソビエト連邦の接近自体には賛成していたものの、ラパッロ条約の調印は西欧列強との交渉を妨げるとして反対した。1922年11月に駐モスクワ大使に任命された。ソ連との友好関係樹立に尽力する一方、ソ連への過度の依存を避けようとした。特に両国の軍事協力には反対し、積極的な軍部との衝突を招いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A6
 ドイツ外務省は、その諸敵に対して何百万ものカネを使って平和プロパガンダをしかけたが、全く何の成果も得られていなかった。
 そこで、次に、ドイツ人達は、ロシアの革命諸政党に目を付けて、ロシア皇帝主義(tsarism)を屈せしめる助けにしようとした。
 彼らは、秘密裏に、パルヴス(Parvus)としても知られる、悪名高い陰謀者のアレクサンドル・ヘルファンド(Alexander Helphand)<(注6)>を含む、工作員達と諜報員達のネットワークを通じて、彼らに諸資金を送り込んだのだ。
 (注6)アレクサンドル・パルヴス(Alexander Parvus。1867~1924年)。「ロシア帝国領ベラルーシでユダヤ人の両親の下に生まれ、オデッサで成長した。成長後、革命家のサークルに加わり、19歳の時にチューリヒに向かい、哲学博士の称号を得た。マルクス主義者となった彼はドイツに向かい、社会民主党に参加してローザ・ルクセンブルクに接近すると、議会闘争を戦略の中心にすえる党の指導部に対してゼネラルストライキを擁護する左派に加わった。1900年には、レーニンにも会い、機関誌『イスクラ』の創刊にも協力した。日露戦争の際には、ロシアの敗北とその不安定化、革命的状況の接近を予言した。この頃、彼はジュネーブでトロツキーと親交を深め、・・・永続革命論の構想を立てた・・・と思われる。・・・
 その後トルコ<で>、武器輸出会社を設立してバルカン戦争で大きな利益を上げ、青年トルコ党の顧問を務めた。この時、アルメニア人の虐殺に一役買ったとされる。この頃、社会主義者たちの間で、彼は金銭に執着し贅沢を好む人間との悪評を建てられた。第一次大戦が始まると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に接近する一方で、レーニンらの「封印列車」による帰国を援助すると共に資金援助を申し出、ロシアの革命運動を操ろうとした。その際には、ドイツ参謀本部から供与された資金をヤーコフ・ガネツキー(Yakov Ganetsky)、カール・ラデックと共にスウェーデンの銀行を経由してボリシェヴィキへ提供した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%B9
 真っ先に、1915年1月、ドイツ政府にアプローチし、彼らの敵の敵を使って、ロシア国内で騒動(upheaval)を起こさせ、戦争の終結を早める(speed)にはどうしたらよいかについての助言を提供したのはパルヴスだった。」(E)
 「<彼らは、>革命下のサンクトペテルブルクにレーニンを密輸することによって、このボルシェヴィキの指導者のカリスマ的プレゼンスがロシアを戦争から叩き出す、という賭けを行ったのだ。
 そうなれば、今度は、ドイツ人達は、同じ月に強大な米国が戦争に参入する前に西部戦線において、彼らの軍隊でもって、英国とフランスを敗北させることに専念することによって、<自分達の>同盟に勝利をもたらすことができる、というわけだ。」(A)
(続く)