太田述正コラム#8727(2016.11.12)
<レーニン見参(その9)>(2017.2.28公開)
 <Brenton(ブレントン)(注16)の本(前出)はアンソロジーだが、その中で>ファイジズ(Figes)<(注17)>が、1917年10月24日の夜、すなわち、ボルシェヴィキのクーデタの前夜、の諸出来事を物語る際、歴史が異なった展開をした可能性を示唆している。
 (注16)トニー・ブレンドン(Tony Brenton。1950年~)。ケンブリッジ大卒(数学)で英外務省に入省し、英駐露大使:2004~2008年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tony_Brenton
 (注17)オーランドー・ファイジズ(Orlando Figes。1959年~)。「イギリスの歴史学者<で>・・・専門は、ロシア史。・・・ケンブリッジ大<卒、同大>博士・・・。・・・同大学で講師を務めた後、ロンドン大学バークベック・カレッジ教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%BA
 レーニンは、鬘で変装し、ペトログラードのソヴィエト(Soviet)<(注18)>の本部である、スモリヌイ学院(Smolny Institute)<(注19)>に向けて出かけた。
 (注18)「ソ<ヴィ>エトという単語は国家としての「ソ<ヴィ>エト連邦」そのものを指して使用されることも多いが、「ソ<ヴィ>エト(評議会)」と「ソ<ヴィ>エト連邦(国家)」は同一のものではない。さらに、ロシア語において「совет」は「忠告」「会議」などを意味する一般名詞であり、通常はその意味で用いられる。・・・(固有名詞としての)革命時の評議会「ソ<ヴィ>エト」の意味で用いる時は「Совет」のように頭文字を大文字にする。・・・
 帝政ロシア末期の1905年に起こった第一次ロシア革命の際に、ロシア社会民主労働党(後のボ<ル>シェヴィキおよびメンシェヴィキ)等の革命派によって、労働者・農民・兵士の評議会(ソ<ヴィ>エト)が作られた。首都サンクトペテルブルクのソ<ヴィ>エトの指導者はトロツキーであった。この時のソ<ヴィ>エトは革命の退潮によって消滅する。
 ソ<ヴィ>エトは、1917年の第二次ロシア革命(二月革命)の際に再び結成された。結成当初のソ<ヴィ>エトの主要メンバーはメンシェヴィキと社会革命党であり、ボリシェヴィキはわずかな勢力しか持たなかった。その後、レーニンは「全ての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げ、ボ<ル>シェヴィキはソ<ヴィ>エトの主流派となっていく。・・・しかし、レーニンのスローガンは口先だけであった(レーニン自身はソヴィエトのことを「粗忽者」「ぐうたら」などと罵倒する発言を秘密文書に残している)。十月革命、内戦を経てロシア共産党(ボ<ル>シェヴィキから改名)は独裁政党となり、政治の実権は共産党が完全に掌握していた。ソ<ヴィ>エトを蔑ろにするボ<ル>シェヴィキに対し、クロンシュタットの反乱では、「全ての権力をソヴィエトヘ」というかつてのレーニンと同じスローガンが、レーニンに対する蜂起のスローガンとして掲げられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88
 社会革命党(エスエル)は、「ナロードニキの流れを組む革命政党として・・・1901年に結成。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%85%9A
 「クロンシュタットの反乱・・・とは、1921年3月にペトログラード西方の軍港都市クロンシュタットで起きた水兵たちによる反政府蜂起。
 バルト海艦隊の拠点であるクロンシュタットの水兵たちは、当初はボリシェヴィキがロシア革命を進める上での重要な支持者であったが、次第にボ<ル>シェヴィキと水兵の意見の相違が大きくなった。1921年、独裁化するボ<ル>シェヴィキ政権に対し、クロンシュタットの水兵たちは、戦艦ペトロパブロフスクの船上で開かれた乗組員集会において、言論、集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する15項目の決議を採択した。水兵たちが蜂起するに及び、モスクワ政府は赤軍部隊を派遣<し、>・・・鎮圧した。・・・赤軍側は4000人以上の戦傷者を出した。一方、反乱側の死傷者の数は不明だが・・・鎮圧後2103人が死刑の判決を受け、6459人が投獄されたと言われる。また、8000人の反乱軍兵士がフィンランドに亡命した。
 十月革命の拠点で起きたこの事件の影響は大きく、ネップ(新経済政策)への政策変更を早めたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1
 ちなみに、「ソ<ヴィ>エトによって1918年に首都機能が<レニングラードからモスクワに>移転され」ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF
 (注19)エカテリーナ2世が1764年に創設した、ロシア最初の女子教育機関。ロシア革命当時の建物は、1808年に完成したもの。1917年にレーニンがボルシェヴィキ本部に指定。その後、首都機能の移転までの間、レーニンが居を構えた。なお、このウィキペディアには、ソヴィエトの本部であったという話は出てこない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Smolny_Institute
 彼は、仲間のボルシェヴィキ達に対し、その翌日に権力を奪取しようではないか、と説得するつもりだった。
 彼が市街を歩いて向かっている途中で、警察が彼を止めた。
 彼らが、彼が誰かに気付いておれば、疑いなく、彼を逮捕していたことだろう。
 しかし、彼らは、彼を無害な酔っ払いだと誤認した。
 「レーニンが逮捕されていたならば、相当の確度で、ボルシェヴィキ達が10月25日の蜂起を行うことはなかったはずだ」、とフィゲスは記す。
 「その場合、ソヴィエト内の全ての諸政党による政府が樹立され、…ソヴィエト権力は右派の軍隊によって反対されたことだろうが、やがては、ソヴィエト軍が極めて強力なものになるあろう結果、1917年10月の後に4年間にわたってロシアを飲み込んだ内戦・・この内戦は、レーニンとスターリンの下のボルシェヴィキ体制の暴力的文化を形成した・・のような巨大な規模の軍事紛争は起こらなかったことだろう」、と。」(F)
⇒モンゴルの軛の後遺症の一つは、ロシア国民が広範に共有するところの、ロシア国内で分派行動を許さない専制体制を(帝政ロシアの終焉以降ももちろん)維持しなければならない、という強迫観念であり、たとえ、1917年の時点で、レーニンが投獄され、或いは殺されていたとしても、専制体制の確立を目指すボルシェヴィキが、早晩、単独権力を獲得する運びになったであろう、従って、(国外勢力の干渉の下での)大規模な内戦の勃発は不可避であった、と私は考えています。(太田)
(続く)