太田述正コラム#8745(2016.11.21)
<ナチス時代のドイツ人(その6)>(2017.3.7公開)
「第二次世界大戦中の諸言葉は引きちぎられ毀された」結果、迫害者達の子供達が将来受けるかもしれない復讐から守るために、女性達や子供達を殺さなければならないといった言い訳までなされるようになった。
ユダヤ人達の十把ひとからげの殺害が最も注目されているが、それ以外の<ひどい>ことだってあったのだ。
避難民達は余りにもありふれた存在となり、あらゆる文化の人々が含まれたため、道々や諸列車は欧州の諸人々を空前の規模で一緒にさせた。・・・
非軍人達が暴力と死に直面する機会は想像を絶する諸水準にまで達した。
その非軍人の人々は、恐怖とストレスは退屈であることさえ学んだ。
というのも、彼らは、大陸級のトラウマなる悪疫の下で呻吟させられ続けたからだ。
諸爆撃、諸処刑、捕虜群、強制労働、配給、飢餓、そして、拷問、は、同様、瞠目するほど娯楽的価値を欠いていた。」(C)
「著者は、ワルシャワに焦点を当てるが、それは、ポーランドが、彼の言葉によるところの、ポーランド人ジェノサイド、と、それに続くユダヤ人ホロコースト、の地(site)であったこと、かつまた、そこで、他の場所で行うこととなる「あらゆることを、ドイツ人達が学んだ」、からだ。
それは、「ドイツ人達の危険性が遍在(presence)していて毎日の生活の風景(texture)の中に浸透していた」国であり、5分の1近くの非軍人達が死に、ユダヤ人達の殆ど全員が死んだ国だった。・・・
ユダヤ人達が、死の諸収容所に送り出されるまで、ドイツ人達によって壁の中に閉じ込められていたところの、ワルシャワ・ゲットー群(Warsaw ghettos)<(注9)(コラム#453、454、5810)>の中では、多くの知的労働は神の問題の周辺が中心となった、と著者は述べている。
(注9)「<欧州>の他国と異なり民族的に寛容な政策を国家の根幹となす伝統としていたポーランド・・・<では、>第二次世界大戦直前のワルシャワ市には37万5,000人のユダヤ人が暮らしていた。これはワルシャワの全人口の30%を占めていた。世界的にもワルシャワは、<米>国の都市ニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市だった。・・・
1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ進攻した。ワルシャワはドイツ軍に占領され<た。>・・・1940年3月以降、ワルシャワ市内、特にユダヤ人居住区のチフスが深刻になった。駐留するドイツ兵への感染を心配したドイツ当局は、1940年3月にユダヤ人評議会に命令を下してユダヤ人居住区の周辺を壁で囲む事を命じた。壁の建設はユダヤ人評議会の負担で行われた。・・・1940年10月2日にはゲットー建設の正式な命令が下され、1940年11月に完成した。・・・11万3000人のポーランド人がゲットーに指定された地区から追われ、代わって13万8000人のユダヤ人がそこへ入れられた。さらに1941年2月から4月にかけて、ワルシャワ西部から連れてこられた7万2000人のユダヤ人がワルシャワ・ゲットーに送り込まれた。1941年3月の時点でワルシャワ・ゲットーの人口は44.5万人だった。これはナチスの創設したゲットーの中でも最大規模の物であった。1940年11月16日にゲットーは封鎖され、自由な出入りはできなくなった。・・・
1942年1月20日、・・・。ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人はトレブリンカ絶滅収容所へ移送されることが決定<され>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC
それ以降については、「ワルシャワ蜂起」シリーズ(コラム#453、454)参照。
<そして、>ポーランドのユダヤ人達の約3分の1は彼らの信仰を失い、残りの者達は神を不具者であると見るに至った、と著者は述べている。
「ワルシャワ・ゲットーの何名かの詩人達は、神を裁判にかけ、彼をガス室へ送り込んだ。」」(D)
3 終わりに
欧州、ロシア、及び米国、には反ユダヤ主義的伝統あるわけですが、19世紀以降、欧州でその克服のための措置が取られ始めると、それがユダヤ人達の影響力の増大をもたらし、欧州においては、むしろ反ユダヤ主義は昂進しつつありました。
https://www.ushmm.org/wlc/ja/article.php?ModuleId=10007166
とりわけ、反ユダヤ主義が高まったのが、戦間期から先の大戦に至る、ドイツとオーストリア、つまりは広義のドイツにおいてですが、その原因は、一般に三つあるとされています。
第一に、敗戦したドイツの軍事指導者達が、責任回避のため、いわゆる背後の一突き伝説・・内部の裏切り者(主にユダヤ人達と共産主義者達)のせい・・を広めたこと、第二に、ロシア革命、ドイツのバイエルンとハンガリーでの短期共産党政府樹立がドイツ等の中流階級の人々を震撼させ、ユダヤ人たる共産主義者達(ロシアのトロツキー、ハンガリーのベーラ・クン、バイエルンのエルンスト・トルレル)の活躍から、共産主義運動はユダヤ人達が主導している、と受け止めたこと、第三に、過酷なベルサイユ条約にドイツ人達等が激しい屈辱を覚えたことが第一と第二に拍車をかけたこと、です。
https://www.ushmm.org/wlc/ja/article.php?ModuleId=10007166
私自身は、ドイツ人(≒ゲルマン人)の生来的戦争能力の高さとそれによって後押しされた権力志向性が、生理的には、ゲルマン人の西ローマ帝国征服と西欧全域における支配階級化、次いでドイツ王≒神聖ローマ皇帝による西欧世俗世界への君臨、そしてナチスドイツによる欧州統一を目指した戦争、をもたらし、病理的には、三十年戦争の惨禍、ユダヤ人ホロコースト、をもたらした、と考えており、三十年戦争とホロコーストを、キリスト教の分裂、反ユダヤ主義、で説明しようとすることなど殆ど不可能である、という立場です。
(いずれ、機会を見て、このあたりのことをもう少し詳細に述べたいと思っています。)
こんなドイツ人には、常に、より大きな力を結集して国際的に掣肘を加えていかなければならない、とも思っているのです。
これまでそれを主導してきたのが、まず、欧州内のフランスであり、次いで、欧州外の英国、更には米国、であったところ、(それ自体は結構なことではあるものの、)米国の力が相対的に甚だしく減衰してきている今、ドイツを掣肘する力が弱まりつつあることが懸念されます。
(完)
ナチス時代のドイツ人(その6)
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