太田述正コラム#8753(2016.11.25)
<西側文明?(その4)>(2017.3.11公開)
ですから、アッピアが、アーノルドとタイラーに、対で、対照的に言及したのはおかしい、と私は思うのです。
ここで、アーノルドの『教養と無秩序』での主張そのものを俎上に載せておきましょう。
彼は、1867年から69年の間に『教養と無秩序』を書いた
https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Arnold
ところ、その頃までに、既にイギリス(英国)は、アジアにおいて、(ビルマはまだだったものの、)ほぼ全盛期に匹敵する植民地群を獲得しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%B8%9D%E5%9B%BD
その中でも、1858年にインド亜大陸に成立させた英領インド帝国(Indian Empire)・・後にビルマもこれに加える・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E9%A0%98%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD
は大英帝国の全諸植民地中、非英国人たる原住民達を支配した形態のものの中の中心的存在でした。
このインド帝国で非英国人たる原住民達から搾取の限りを尽くした(コラム#省略)結果として、イギリス人全体が不労所得で潤うこととなり、これが、「階級」のいかんを問わず、彼らを堕落させた、というのが私の見方なのです。
アーノルドは、同著において、「機械工業の進歩や商業の発達、貿易の好調・・・<や、>ガスや電気を使うようになり交通が便利になった」こと、がイギリスに空前の繁栄をもたらし、それが堕落をもたらした、と主張しているところ、イギリスが、その歴史を通じ、少なくとも欧州諸国・諸地域に比して、常に繁栄を謳歌し続けてきていた、という史実(コラム#省略)からすれば、そんな主張は論理的に成り立ちえない、と言わざるをえません。
このように堕落の原因についての認識がそもそも誤っているのですから、堕落から回復するための彼の処方箋もまた誤っていることは言うまでもありません。
その処方箋は、彼が唱えたところの、イギリスにおける(それぞれアングロサクソン文明とは異質の文明に係る)ヘブライニズムとヘレニズムの復興などではなく、アングロサクソン文明自身が内包するところの、人間主義的要素の弱体化の食い止めと再強化であるべきであって、しかも、それは、英領インド帝国の原住民達に人間主義的対応をすること・・より一般的に言い換えれば、「野蛮な」オリエント住民も人間主義的要素の対象にすること・・を軸になされるべきだったのです。
とはいえ、本当にそんなことをやるためには、個人主義(メイン)と人間主義的主義(サブ)からなるアングロサクソン文明を人間主義一本の日本文明化する必要があったかもしれませんが・・。(太田)
我々は、仲間たる70億人の人間達と一緒に、小さな、温暖化しつつある惑星に住んでいる。
我々共通の人間性を利用する全世界人的な衝動はもはや贅沢品ではなく、必需品になった。
そして、この信条を簡潔な形にするにあたって、私は、<米国の諸大学で提供されている?(太田)>西側文明の諸科目において頻繁に登場するところのものを利用することができる。
というのも、私は、自分自身をアフリカ人テレンティウス(Terence the African)<(注7)>と呼んだところの、古典欧州の著述家にして、ギリシャ諸悲劇のラテン語翻訳者にして、ローマ領アフリカの元奴隷であった、戯作者テレンスの明確な記述を更に良いものにすることなどできないと思うからだ。
(注7)プブリウス・テレンティウス・アフェル(Publius Terentius Afer。195/185BC?~159BC?)。(Terence(テレンス)はテレンティウスノの英語表記。)ベルベル人であり、ローマの元老院議員のテレンティウス・ルカヌス(Terentius Lucanus)が彼をローマに奴隷として連れてきて教育し、その能力に感銘を受けて解放した。彼は6つの戯曲を書いたが、その全てが現存している。彼の[氏族名]はこの元老院議員の名・・個人名か氏族名かは分からなかった(太田)・・からとっている。25歳の時にギリシャに旅行し、その旅の途中で亡くなった。
マルティン・ルター、モンテーニュ、ディドロ、米大統領のアダムス、らは彼の作品の愛読者だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Terence
「「アフェル」という名前は・・・テレンティウスの時代<の共和制ローマで>は、カルタゴを含むアフリカのリビア一帯の人間を指していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB ([]内も)
古代ローマの男性市民は、第一名(praenomen=個人名)、第二名(nomen(gentile)=氏族名)、第三名(cognoomen=家族名)、の3つの名前(tria nomina)を持っていた。更に第四名(agnomen=添え名)がつく場合もあった。女性は通常、個人名と添え名を持たなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%90%8D
彼は、かつて、「Homo sum, humani nihil a me alienum puto.」、すなわち、「私は人間だ。私にとって、人間たるゆえんのもので、相容れないものは存在しない」<(注8)>、と記した。
(注8)アッピアは、このラテン語の文章を’I am human, I think nothing human alien to me’と訳しているが、これでは意味が極めて分かりにくい。’I am human, and nothing of that which is human is alien to me’(上掲)と訳すべきだった。
このアイデンティティは、まさに、しがみつくに値するものだ。」
3 終わりに
私が、名前だけ知っていたアーノルド/『教養と無秩序』について少し詳しく知ることができたこと、全く知らなかったテレンティウスを知ることができただけでも、このアッピアによるコラムを読んだ甲斐があった、ということにしておきましょう。
(完)
西側文明?(その4)
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