太田述正コラム#8755(2016.11.26)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その1)>(2017.3.12公開)
1 始めに
実は、当初、別のシリーズを予定していたのですが、しばらく前に読者の渡(わたり)洋二郎君から寄贈を受けていた、渡正元著・真野文子訳の『現代語訳 巴里籠城日誌』(巴里籠城日誌刊行会)が、日経の「私の履歴書」の隣の欄で取り上げられた、と彼から電話があり、いつかは太田コラムでも取り上げようとしていたところの、この本を、前倒しして取り上げることにしました。
洋二郎「君」なのは、彼、私の麹町中学時代の同級生だからです。
彼とこの本とは、この本の著者、渡正元が彼の曽祖父であって、「渡正元の孫、曽孫、縁故者で年一度の「渡いとこ会」が続いてい<たところ、>・・・その中から・・・本家を継ぐ渡洋二郎・・・によって2014・・・年に立ち上げられ<た>・・・「渡正元研究会」・・・の中<で、>「巴里籠城日誌刊行会」<が>分科会のようにして作業を進め<られ、自費出版の形(洋二郎君の談)で>・・・発刊<にこぎつけた>」(365~366)ところ、彼がこの本の「まえがき」(3~5)を書いている、という関係です。
なお、漢文訓読体の原文が、洋二郎君同様、正元の曽孫であるところの、真野文子さんによって現代語訳されています。(365~366)
さて、渡正元は、「芸州浅野藩士で勤王の志士であ<り、旧幕府がフランスと縁が深かったことから(洋二郎君の談)、>・・・1869年9月に日本を出てロンドンを経由して、1870年3月3日第二帝政下のパリに入り、図らずも普仏戦争に巻き込まれ」(3)て、この本の原本である『法普戦争誌略』の草稿を書きあげたのです。
彼は、「この後、サンシール陸軍士官学校の留学、1872年ウィーン万国博覧会の視察、岩倉使節団との面会を経験して、1874年7月に帰国」(3)しています。
そして、帰国後、「正元は<、陸軍に入った(洋二郎君の談)ところ、>軍人から法制官<たる行政官に転じ<、>・・・更に行政官から立法官・・・<すなわち、>勅選貴族院議員・・・<へと>その位置を変え<、>・・・93才の長寿を享受して・・・昭和6年<(1931年)に>・・・この世を去っ<て>」(4)います。
2 巴里籠城日誌
「<1868>年、スペインで政変が起きて、女王イサベラ2世<(注1)>は退位させられ国外追放となった。・・・
(注1)Isabel II(1830~1904年。女王:1833~68年)。1868年の名誉革命で追放され、1870年に正式に退位し[、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Victor Emmanuel II)の次男が王位を継ぐが、こんな国は統治不可能として1873年に自ら退位し、第一共和制が成立するも、翌]1874年に彼女の息子のアルフォンソ12世(Alfonso XII)が王位に就き、[スペインにおけるブルボン王朝が復活した。]
https://en.wikipedia.org/wiki/Isabel_II_of_Spain
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Spain ([]内)
スペイン<内では>新たに共和制を打ち立てようと計画したが、ナポレオンがこれを拒んできかなかったため、・・・新王の擁立に切り換え、・・・フランスの前代国王オルレアン家ルイ=フィリップの息子で、<前>スペイン女王の妹婿にあたる、・・・モンパンシエ公を推挙して王座に据えることになった。
だが、フランス帝はまたも同意せず固く拒んだ。おそらくフランス帝の意向は、追放された女王に幼い息子がいるので、補佐官を付けて彼を王座に据えること<だったのだろう>・・・。・・・
しかし、<スペイン側>はそれに同意せず、・・・イギリスに王位継承者を求めて断られ、ポルトガルに要請しても応じてもらえず、最後にプロイセンの王子ホーエンツォレルン公に王位継承を願い出たところ、プロイセンは承諾した。・・・
ナポレオン帝はプロイセンに迫ってこの<話>を撤回させた。・・・
帝はこの機会を捉え戦争を起こし、国の内憂外患を一掃しようと考えたのだろう。・・・なおも・・・プロイセン王族は末代までスペインの王位に就いてはならないことを要求した。・・・<そして、>もしできなければ戦争も辞さないと言い送り、その返答のために48時間・・・の猶予をおいた。すなわち、日限は7月14日12時まで<としたのだ>。」(18~20)
⇒これが、19世紀後半、日本で言えば明治維新後の時点での欧州の姿であり、イギリス人達が、欧州を内心野蛮視してきたのもむべなるかな、と皆さんも納得されるのではないでしょうか。(太田)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その1)
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