太田述正コラム#8757(2016.11.27)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その2)>(2017.3.13公開)
「15日・・・フランスの両院(立法院と元老院)が開戦を決議し・・・19日・・・フランス帝は・・・プロイセンに対し宣戦布告を発令した・・・。・・・
28日・・・フランス帝<が>出陣<。>・・・帝の留守中の国政はすべて后妃に委ねる旨の命令があり、彼女が臨時の摂政に任命されたようだ。・・・
8月1日・・・帝は本陣をメッス<(注2)>の地においた。・・・
(注2)「メス(Metz、ドイツ語の発音ではメッツ)は、フランスの北東部<の>都市」であり、現在の仏・独・ルクセンブルク国境付近に位置する。「元は神聖ローマ帝国領であり、中世には<欧州>の経済の中心地であった。しかし、1552年にフランス王アンリ2世がトゥール、ヴェルダンと共に占領、1648年の<ウェストファリア>条約で正式にフランス領になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B9_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9)
2日・・・午前11時、ザールブリュッケン<(注3)>・・・で双方が発砲しあい本格的な戦闘となった。・・・
(注3)Saarbrucken。「フランス領のアルザス・ロレーヌに近い・・・ドイツ・・・の都市。・・・
中世より、ライン川流域とフランドルの中継地点として、交易路の要所であった。1815年よりプロイセン王国の支配下に置かれ、引き続き北ドイツ連邦、ドイツ帝国の一部となった。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約の取り決めによって国際連盟の管理下に置かれたが、1935年の住民投票の結果を踏まえ、ドイツ領に復帰した。第二次世界大戦で激しい攻撃を受けた後、再びドイツから分離され、フランスの管理下に置かれることになったが、住民投票の結果、再度ドイツに復帰することが決定され、1957年1月1日を以ってドイツに復帰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%B3
5日・・・両国の境ヴィッサンブール<(注4)>に布陣する先方隊ドゥエー将軍の陣営にプロイセン軍の先鋒隊が急襲し激闘となったが、フランス兵が大敗し、大将ドゥエーは砲撃で戦死する。・・・
(注4)ヴィサンブール(Wissembourg)。「アルザス<地方>の北の端に位置し、ドイツの国境に接する・・・町。」
http://www.geocities.jp/konronhyuhyo/photophoto/heritage/wissembourg.html
ちなみに、「アルザス=ロレーヌ地方は長年神聖ローマ帝国傘下のロートリンゲン公国などの支配下にあった。しかし17世紀になるとフランス王国が勢力を拡大してストラスブールなどを支配下に置いた。1736年にロートリンゲン公フランツ3世シュテファンがオーストリア系ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝家)のマリア・テレジアの婿に決定すると、フランス王国はロレーヌが実質的にオーストリア公領となるこの結婚に反対した。協議の結果、領土交換が行われ、一代限りのロレーヌ公となったスタニスワフ・レシチニスキの死後には完全にフランス領に編入された。
1871年、プロイセン王国が普仏戦争でフランスを破ると、プロイセンはフランスとの講和条件としてアルザス=ロレーヌを国土の一部とした。プロイセン王国は「ドイツ帝国」の成立を宣言してこの地域を帝国の直轄統治下に置いた。ただし元々アルザスの一部であったテリトワール・ド・ベルフォールは併合を拒んで激しく抵抗したためフランス領に留まった。アルザス=ロレーヌという地域名称は、この時期に存在した「エルザス=ロートリンゲン」(ドイツ帝国を構成する26連邦構成国の一つ)をさすものである。
1919年、ドイツが第一次世界大戦で敗れると、一時アルザス=ロレーヌ共和国が独立を宣言したが、フランスが領有権を主張して認められた。教育制度はフランス式に改められ、アルザス語の使用が禁止されてフランス語が公用語とされた。・・・1930年頃、自治を求める運動が活発化した。
1940年にナチス・ドイツが第二次世界大戦で再びフランスを破って、首都パリを占領すると、同年8月7日、再度アルザス=ロレーヌを自国に編入した。だが、1944年にドイツに抵抗を続けていた自由フランスがパリを奪還して新政府を樹立すると、この地域からドイツ軍を追って再びアルザス=ロレーヌを領有して現行の国境となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%82%B9%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C
フランス軍が大敗した報が夜の巴里市中に広まり、人々が周章狼狽し、その騒ぎはひととおりのものではなかった。・・・
9日・・・伯爵パリカオ将軍<(脚注)>が新たに首班に指名され、同氏はこれを受けた・・・
《脚注》本名はグーザン=モントーパン<(注5)>という将軍。アロー号事件時に清国に派遣され北京城を攻め、・・・円明園を焼き討ちする。パリカオは彼の綽名であり、北京侵攻の際<の>戦略的要衝「八里橋」の名に由来する。・・・
(注5)Palikao, Charles-Guillaume-Marie-Apollinaire-Antoine Cousin-Montauban, Comte de。1796~1878年。フランスの軍人。 1856年ナポレオン3世がアロー号事件に関連して中国に出兵,60年<英国>と連合して北京に侵入した際,連合軍に参加し,9月21日パリカオ (北京の東方,八里橋) で勝利を収め,10月12日北京を占領,ナポレオン3世によってパリカオ伯に任じられた。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%82%AA-116872
10日・・・十名・・・<の>新任大臣>が>任命<された。>・・・芸術大臣<(注6)>職は廃止<された、>・・・
(注6)こんな時代にこんな役職(役所)が、と驚き、この芸術はartの訳語であると想像されるところ、少し調べてみた範囲では何も分からなかった。
ちなみに、フランスでは、「1959年シャルル・ド・ゴールの肝いりでMinistere des Affaires culturellesの名称で設立され<、>初代文化大臣<が>アンドレ・マルロー」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%BB%E9%80%9A%E4%BF%A1%E7%9C%81
であったことはよく知られている。
考えてみると、このたびの改造はもともとパリ市内の人々の騒ぎが差し迫ったものであったからだ。おそらくフランスの人民や国の体制の特徴がこうであるからだろう。ヨーロッパでいちばん統制のとりにくい国民はフランス人だといわれる。」(21、23、25~26、35)
⇒確かにそうかも、と思わせる箇所であるところ、「といわれる」というのだから、伝聞とはいえ、それなりの典拠は付すべきですが、この時代、正元にそこまで求めるのは酷というものでしょうね。(太田)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その2)
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