太田述正コラム#8761(2016.11.29)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その4)>(2017.3.15公開)
本日の報道によると、プロイセン軍がすでにフランスの国境を越えて侵入しているという。
今回、プロイセンは開戦と同時に国内在住のフランス人をことごとく追放した。
しかし、・・・先だってはフランスでも命令を下してドイツ連邦<(注9)>の人民を追放したが、そのまま国内にとどまっている者がなお多いという・・・
(注9)北ドイツ連邦(Norddeutscher Bund=North German Confederation)は、「1867年4月26日にドイツ北部のプロイセン王国を主体に22の領邦から成立した連合体を指す。1871年のドイツ帝国(ドイツ国)の母体となり、機構の大部分は引き継がれた。・・・普墺戦争に勝利したプロイセン王国は、オーストリアの主導するドイツ連邦を解体し、ドイツ関税同盟によってかねてから結びつきの強かったドイツ北部諸邦と連合する連邦国家を成立させた。連邦主席はプロイセン国王が務め、宣戦・講和・条約締結ならびに陸海軍を指揮する権利を占有した。・・・<そ>の存続期間を通して・・・北ドイツ連邦の宰相はプロイセン首相である・・・ビスマルクが務め、また連邦参議院議長も兼任した。プロイセン王国だけで国土・人口の8割以上を占めたが、主権は各領邦に残された。・・・連邦政府の組織としては、諸邦の代表による連邦参議院と男子普通・直接選挙による連邦議会があり、連邦議会は立法権および予算審議権を有した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%80%A3%E9%82%A6
なお、この連邦に加わらなかったドイツ南部の南部に、連邦に加わったホーエンツォレルン公国があるが、プロイセン王家の出身故地だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/North_German_Confederation
12日・・・パリ市内の在住者でプロイセンとドイツ連邦の人民はおよそ4万と見積もられている。
これらの人々は本日以降2日以内に市内を引き払い、境界外へ退去するよう命じられた。
⇒「境界外」とはパリ市の境界外のことだとすると、このことを含め、プロイセンに比べて、フランス側の、この戦争に対する態勢が極めてユルかった感が否めませんね。(太田)
今回の開戦によって市中で金・銀貨が乏しくなり、人々は所持している紙幣を金・銀貨と交換し、もっぱら金銀のみを貯えようとする。・・・
<そこで、>争って政府の銀行に行った引き替えを望む者が多く、その混雑ぶりは甚だしい。
今日の午後、私も銀行へ行っ<た。>・・・
もともと一書生にすぎない私の所持金はわずか750円である。
⇒この時の所持金こそ「わずか」だったかもしれませんが、正元が、多額の留学資金をどのように確保したのか、興味があります。(太田)
しかし、門を出るときは手の中で銀貨を重く感じた。
この日は午後1時から3時まで待ってやっと紙幣を引き換え、<同じ目的でこの銀行に詰め掛けていた>数万人の群衆の中を抜け出した。・・・
13日・・・フランスのナンシー<(注10)>以東はすでに敵軍に占領されている。
そのため、ストラスブール、オベルネー、シェーンブールの三市を通ることはできない。
(注10)Nancy。「フランス北部・・・の都市であ<り、>・・・約45キロ北にメスが位置する。・・・
18世紀、ロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。・・・スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合された・・・。オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの夫で、共同統治者 (Corregens) であった神聖ローマ皇帝フランツ1世・シュテファンはこの地の出身であり、スタニスワフ1世に譲位するまではロレーヌ公であった(ロレーヌ公国を放棄する代わりにトスカーナ大公となった)。・・・
普仏戦争後の1871年、・・・アルザスと<ロレーヌの過半>はドイツに併合されたが、・・・ナンシーはフランス領に留まったため、ドイツ市民となることを拒んだアルザス人および<ロレーヌ>人の実業家や知識人たちが大勢ナンシーに移住して<くることになる>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC
14日・・・8月10日のプロイセン発ベルリンの新聞(ただし、イギリスのロンドンからの報道)
⇒この頃、既に、イギリスの新聞が数日遅れでフランスでも購読できた、ということですね。
それにしても、正元は、仏英両語を、留学前、或いは留学後、にどのように身に付けたのでしょうね。(太田)
プロイセン王妃<(注11)>は自らの意志で、今回捕らえたフランスの将軍や兵卒らに食料などを手厚く用意し、いろいろ配慮した。
(注11)アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ(Augusta von Sachsen-Weimar-Eisenach。1811~90年)。「ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の王族。ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公・・・とその妃でロシア皇帝パーヴェル1世の皇女・・・の間に第3子としてヴァイマルで生まれた。1829年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男であったヴィルヘルム王子<・・後のドイツ皇帝・・>と結婚し<たが、>・・・夫・・・は相思相愛の許嫁だったエリザ・ラジヴィウヴナとの結婚を政治的思惑から許されず、やむなくアウグスタを妃に選んだ<のだった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%8A%E3%83%8F (←アウグスタの肖像画が載っている。)
「<ヴィルヘルム>は妹のロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナに対し、エリザについては「生涯で愛した唯一の人」とする一方で、アウグスタについては「王女はとても可愛くて利発ですが、僕の心は彼女といても醒めたままです」とする内容の手紙を書き送っている。幼いアウグスタは婚約者を慕って幸福な結婚を夢想していたが、結婚後にエリザ・ラジヴィウヴナのことが知れると、アウグスタは自分が夫にとってはエリザの都合のいい代役に過ぎないのだと気付くことになり、夫婦関係は不幸なものとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%83%B4%E3%83%8A (←エリザの横顔の素描が載っている。)
⇒家族に関して言えば、ナポレオンとヴィルヘルムは、共に良い配偶者を得て、いい勝負であったけれど、後者の息子のフリードリッヒが軍人としてこの戦争でも大活躍をした(後出)分、やはり、ヴィルヘルムが勝っていた、と言えそうです。(太田)
このごろ、フランスの捕虜将兵に衣服や必要物資を与えるための王妃の配慮はきわめて慇懃である。
また、ベルリン在住の婦人たちはフランス虜兵を憐み、酒、ビール、紅茶、コーヒー、たばこなどを贈ったという。
今のベルリンは蒸気車の駅員にすべて婦人を雇っている。また、フランス捕虜の世話係にもすべて婦人を起用している。
全男子が軍隊に入り出征しているからである。」(21~44)
⇒引用を省略しましたが、フランス軍の方は、この時点でもなお、志願制を維持しており、フランス側は、自分の方から最後通牒を発しておきながら、前述したように、あらゆる面で腰が据わっていなかった、と断ぜざるをえません。(太田)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その4)
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