太田述正コラム#8779(2016.12.8)
<米リベラル知識人の内省三(その1)>(2017.3.24公開)
1 始めに
三番目は、アマンダ・ヘス(Amanda Hess)による、共感(Empathy)に関するコラム
http://www.nytimes.com/2016/11/29/magazine/is-empathy-really-what-the-nation-needs.html?hpw&rref=magazine&action=click&pgtype=Homepage&module=well-region®ion=bottom-well&WT.nav=bottom-well
(11月30日アクセス)のさわりの御紹介とそれへの私のコメントです。
なお、ヘスは、様々な賞を受賞した、米国のフリーのジャーナリストです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Amanda_Hess
2 米リベラル知識人の内省三
「・・・「共感」は、フェイスブックがいつでも好む決まり文句だ。・・・
ザッカーバーグ(Zuckerberg)<(注1)>は、「より多くの人々がより多くのもの(stuff)を共有するためにフェイスブックを使用している」、と2010年に語った。
(注1)Mark Elliot Zuckerberg(1984年~)。ユダヤ系米国人。ハーヴァード大計算機科学中退。フェイスブック創業者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0
「それは、我々が、欲するならば、我々の周りの人々が何をしているかを、行って見て、調べ、理解、できることが、フェイスブックにはもっとある、ということを意味する。
そして、私は、<そうすることによって、我々において、>良い、核心たる人間達に対するより広範な共感、理解へと導き、社会がより良く機能するようになる、とまさに思うのだ」、と。・・・
<また、この前、>ワシントンポストは、「トランプに投票した人々に共感を<抱こう>」、と示唆した。
<更に、>NYタイムスの論説で、グレン・ベック(Glenn Beck)は、「我々が見解を異にする人々に共感しようとすることで全員が裨益するのではないか」、と書いた。
それらは全て、いささか後戻り(throwback)のような感じがする。
国家的ムードを測る(gauge)ための、我々の近代的な科学的諸手法(mechanisms)の多く・・世論調査やデータ・ジャーナリズム<(注2)>、といったもの・・が、トランプの勝利を予想することに失敗したまさにその時に、米国人達に対して、手を伸ばし(reach out)てより直接的に互いに触れ合うよう促す呼び掛けがなされている<、というのだから・・>。
(注2)「大規模なデータの集合体をフィルタリングし解析することで、新たな解釈を作り出すことを目的と<する、>・・・調査報道の<1手法>・・・<であり、>インターネット上で自由に得られるオープンデータを扱い、オープンソースとして公開されているツールで分析を行う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
しかし、共感へのこれらの諸呼び掛けには、奇妙にも、一つの戦略的な支柱があった。
共感とは、結局のところ、同情(sympathy)ではない。
同情は、他の人々との緊密な親和性(affinity)を奨励する。
あなたは彼らの痛みを感じる。
<それに対し、>共感は、何かより技術的なもの・・他者達の諸感情を理解することへの感情に動かされない(dispassionate)アプローチ・・を示唆している。
そして、今日においては、他者達の痛みをそこから何かを得る・・我々の得になるような政治的、技術的、消費者主義的な結果を操作してもたらす・・ために必要十分な程度に理解することを意味するようにしばしば見える。・・・
⇒他者の境遇や気持ちに対する理解という点では同じでも、同情は親族や友人等特別な関係にある人々との間を律する利他的感情、共感はそのような関係にない人々との利己的感情、ということのようですが、「そのような関係にない人々」との、利他的でも利己的でもなく、また、感情というよりは本能であるところの、人間主義とは、どちらも似て非なるものである、と言ってよさそうですね。(太田)
「共感」は、最初、我々の、他の人間達との関係、ではなく、諸対象物(objects)との関係、を説明するために出現した。
この言葉は、ドイツ語のアインフュールンク(einfuhlung)<(注3)>・・einは「中(in)」、フュールンクは(感情(feeing)」・・という、19世紀の美学の概念から来ている。
アインフュールンクは、芸術や自然に「感情移入(feeling into)」する、或いは、自分自身を美的対象物の中に投入(project)する、行為(act)、を描写したものだ。
(注3)’u’にウムラウトがつく。「感情移入・・・他人や芸術作品や自然と向かいあうとき,これら対象に自分自身の感情を投射し,しかも,この感情を対象に属するものとして体験する作用をいう。」
https://kotobank.jp/word/Einf%C3%BChlung-1230379
すぐに、「共感」は、人間が対象物として互いにどのように関係しているかを描写する言葉になった。
すなわち、近代神経科学のように、それは、「諸筋肉と諸神経」の研究の中における、「物質的身体とその諸部位との相互作用」の中に、人間の諸感情のルーツを探し求めたわけだ。
この、「共感」への<関心の>変移が、人々をして、「同情」・・キリスト教的徳、道徳的義務と憐憫(obligation and pity)、なる諸観念と結び付けられた感傷(sentimentality)に没頭した形で突然見られるようになった言葉・・なる文化的一包みを投げ捨てさせたのだ。
19世紀のフィクションにおける同情に関する本の著者である、インディアナ大教授のラエ・グレイナー(Rae Greiner)<(注4)>は、20世紀になったばかりの頃に、「同情は、ヴィクトリア期の人々に、共感は我々に、属するように見えるに至った」、と書いた。
(注4)英語学科準教授(女性)。カリフォルニア大バークレー校博士。2009年以来、「ヴィクトリア期研究(Victorian Studies)」編集長。
http://www.indiana.edu/~engweb/faculty/profile_dGreiner.shtml
(続く)
米リベラル知識人の内省三(その1)
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