太田述正コラム#8781(2016.12.9)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その5)>(2017.3.25公開)
「<引き続き>14日・・・今までパリ市中に在住しているドイツの人民はすべて2日内にフランスから退去せよとの勧告が出た。
それによって、この戦地を間に挟み一方はベルギーから、もう一方はスイスから、それぞれ二手に分かれて近くの鉄道を使っての退去命令が下った。
また、フランス政府はこの鉄道のフランス領内の蒸気車の乗車賃を平常時の半額にすると指令。しかし、ドイツの人民はすべて平常料金を払って、退去したという。・・・
⇒前述したように、この退去措置が取られたのが、プロイセン側に比し、遅すぎた感が否めません。
この箇所の典拠を、正元は、・・フランスの新聞が敵国内で取材ができた
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_III,_German_Emperor
のですから、まだまだ牧歌的な時代であったわけですが、・・「ケルン発の報道」(47)としているところ、「平常料金」とはいかにも律儀なドイツ人達らしいですね。(太田)
15日・・・先鋒隊司令官マクマオン元帥<(注12)>は3万3千の兵を率いてプロイセン兵16万と戦い、3時間にわたる激闘の末、双方ともに弾薬が尽き、銃剣での白兵戦となった。
(注12)Marshal Marie Esme Patrice Maurice, Count de MacMahon, Duke of Magenta(1808~93年)。祖先はアイルランド貴族だったが、クロムウェルの時代に多くの所有地を没収され、フランスに移り、やがてフランスの貴族となった。仏陸士卒。クリミア戦争(1853~56年)やイタリア第二次独立戦争(1859年)で活躍、後者での功績を称えられ、元帥となり、その後公爵となった。1873~75年、フランス第三共和政の第二代大統領を務めた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Patrice_de_MacMahon,_Duke_of_Magenta
この時、フランス兵はひどい飢餓に襲われ、ついに大敗するにいたる。・・・
⇒正元の記述が正しいとすれば、5倍の兵力の敵と戦うなど無謀ですが、「飢餓」と合わせ考えると、フランス側の人員や物資の輸送力がプロイセン側より最初から著しく劣っていたか、既にプロイセン側により、兵站が遮断されつつあったのか、或いはその双方だったのか、でしょう。(太田)
<また、>バルト海において・・・フランス海軍は広範囲に布陣し、ドイツの各港およびその交通を完全に遮断した。・・・
⇒普仏戦争の際に海上での対峙もあったことを教えてくれる貴重な記述です。
記述内容が正しいとすれば、海上ではフランス側が優勢だったことになりそうですが・・。(太田)
17日・・・プロイセン王太子フリードリヒ=カール<(注13)>が大軍をもって激しく<フランス>軍右翼を襲撃した。」(44~50)
(注13)[Friedrich Wilhelm Nikolaus Karl。後の]Friedrich III(1831~88年)。「第8代プロイセン王・第2代ドイツ皇帝(在位:1888年3月9日~1888年6月15日)。自由主義者で国民には「我らがフリッツ」と呼ばれて親しまれたが、父ヴィルヘルム1世[・・カールは父の唯一の息子・・]とビスマルクには疎んじられ、政治的影響力を持つことはなかった。在位わずか3ヶ月(99日)で死去したため「百日皇帝」ともあだ名される。・・・母の勧めでボン大学で歴史学・文学・法学を学んだ。一方、父は軍務を強いて、・・・大モルトケの元で・・・軍事学を若い頃から学ばせた。・・・英語とフランス語に堪能であり、ラテンの歴史学・地理学・物理学・宗教学・音楽に詳しかった。・・・1851年、・・・ロンドンの万国博覧会に赴き、そこでヴィクトリア女王の長女<の>・・・ヴィクトリア王女と知り合った。1858年・・・フリードリヒと<彼女>はベルリンで結婚した。・・・
[デンマークとの戦争を含め、戦争にはことごとく反対しつつも、]1866年の普墺戦争におけるケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)や、1871年の普仏戦争におけるセダンの戦いでは、プロイセンの勝利のために重要な役割を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D)
普仏戦争の際に、前線で、彼は、フランスの記者達に対し、「紳士達よ、私は戦争が嫌いだ。私が統治することになったら、私は戦争を絶対にしない」、と語っている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_III,_German_Emperor 前掲([]内も。)
⇒ナポレオン3世も前線近くで総指揮を執り、プロイセン側は王太子を前線に投入したわけであり、ほぼ同時代の米国の南北戦争(1861~65年)
https://en.wikipedia.org/wiki/American_Civil_War
において、北部のリンカーンはもとより、南部の、米陸士卒で軍歴もあるジェファーソン・デイヴィス(Jefferson Davis)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jefferson_Davis
でさえ、前線に出ることがなかったことと好対照です。(太田)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その5)
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