太田述正コラム#8785(2016.12.11)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その7)>(2017.3.27公開)
「9月2日・・・スダン要塞陥落<(注15)>。
(注15)セダンの戦い(Battle of Sedan=Bataille de Sedan。1870年7月19日~1871年5月10日)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
フランス帝は捕虜となり、フランスは共和制度となる<ことになった(注16)>。
(注16)ナポレオン自身は死ぬ気はあったが、兵士達の死傷の増大を回避するために降伏した。9月3日にナポレオンが捕虜になったことを知った、摂政たる皇后ユージェニーは、彼が戦死せず捕虜になったことを詰り、米国人、英国人の助けを借りて、パリから脱出し、英国へ逃亡した。翌4日、共和国への復帰が共和制派議員達によって宣言されたが、戦争は継続されることされた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Napoleon_III
9月4日・・・この朝の市中布告
フランス人民よ、ああ、わが国は実に大きな不幸に遭遇した。
この3日間は激烈な大尖塔、わが司令官マクマオンはプロイセンの30万の大軍に対し血戦を数度も試みた末に、わが軍はついに敗れ、4万の兵は全員捕虜となり、マクマオン司令官は重傷を蒙って、ヴァンファン将軍に交代したが、彼もまた敵の捕虜となった。
スダン要塞が落城すると、その兵4万が捕虜となり、ナポレオンも捕虜となった。
はや、パリ防戦の時となり、全国の人民は心を合わせ協力して自主自立を永くつづけていかなければならない。
一、今日からフランスは共和制となる。
よって、今後における内外の事務はすべて共和政府が決議裁定する。
1870年9月4日 フランス共和政府諸大臣・・・
今日、私はレスピオー歩兵中佐(この人は私の知人である。去る8月6日の戦いで大腿部に被弾し、治療のため市内に戻っている。この人は出陣時は歩兵少佐であったが、このたび中佐に昇進した。私と同宿であり、日々親しく話している)に訊いてみた。冒頭は私の質問提起である。
・・・国は一日もその主がいなくては済まされない。ゆえにこの戦争が終わって帝が帰ったならば、樹立された共和制度はフランス帝の捕虜中に仮に設けられたものとして、必ず以前のように帝位に置いて君主制に戻すだろう。それならば、今、新たに共和制度の名を置かなくても、皇太子はすでに軍中にいる。幼年であるとはいえ、帝位に昇るという国の約束はできている。・・・
〈答〉今日の共和制度は仮にも批判してはならない。ナポレオンは再びこの国に入ってはいけない。
〈問〉その理由はどのようなことか。後日、勝敗がつけば、プロイセンはナポレオンを送り返すであろう。そうなると民衆はこれをどうするのか。
〈答〉フランス人は再びナポレオンを国内に入れるのを認めないであろう。その理由は、今度の戦争はすべて帝が好んで起こしたというところにある。ところが、策は成功せず、その命令指揮も良いものではなく、軍は敗れ、数多くの兵士を失い、若者を殺した。これは民衆の恨み憎むところで、その罪はとうてい許されるものではない。ゆえに、今、フランスはその帝位を剥ぎ、ナポレオンを捨てた。よって、彼は今や一兵卒、一男子と異なるところはない。たとえプロイセンが許して釈放しても、フランスに彼の関与は許されない。ほかの国に去って居住するべきだ。
〈問〉そもそも軍の勝敗は時の運であって、英雄とて時にうまくいかないこともある。フランスの兵はもとより勇敢であるといっても、連日の敗戦の報知はフランスの不運・不幸というべきものである。また、指揮号令が帝から出されるのは、それが国家元首の任務であるからだ。今度の敗北は必ずしも帝の罪とはいえない。果たして帝の運か。そうだとすれば、その臣民として帝を拒むだけでなく、捕虜となったのを見棄ててこれを助けないどころか、この機会に乗じ彼を追放する理由となるだろうか。
〈答え〉フランス全国の人民は二分されている。一方は帝を憎み、また一方は帝を助ける。ところが、今やこの二つの勢力が合わさり帝を恨み罵り、その声は市街に満ち溢れている。万民が背くという心の極み対してはどうしようもないのだ。
私は思う。
今度の普仏戦争の原因理由を探し考えてみると、もとより一朝一夕のことではない。
プロイセンがフランスに対して戦争を計画してからすでに久しい。
プロイセンが先の1866年、オーストリアに勝ち、土地を拡げ、軍の威力を奮って翼を四方に伸ばすべく、その勢いはほとんどヨーロッパを呑み込むほどであった。
それだけでなく、フランスに対する宿怨が深く、兵力を競いあうことすでに何年も経過している。
フランス帝は戦いを避けるとはいっても、帝はすでに年老いて、さらには昨年来、国内において難しい問題が起こり、この春にようやくこれを鎮めたところだ<(注17)>。
(注17)何のことか不明。
また、人民の気持ちが泰平政治に飽きを感じはじめたところにきて、兵士の訓練はもともと行き届いていて武器庫や穀物の倉も一杯である。
国の内外で機会はこの時しかない、と気力が奮い立ったということだろう。
⇒正元はパリ(フランス)にいたのでプロイセンに対してやや辛口になったことは理解できますが、「直接には関係のないフランスがスペイン王家とプロイセン王家の間に入って一介の大使が静養地で休暇中のプロイセン王に迫ってスペイン王位継承に関して再度確約を求める<(前出)>というのは帝国主義の当時の外交常識からしても強引であった。プロイセンにはフランスの安全を保障してやる理由はなかったが、フランスは自身の軍事力を過信して強硬な姿勢がプロイセンのような大国をも譲歩させると錯誤、ドイツはおろかプロイセン一国の工業力・軍事力がフランスを凌駕していたことを直視していなかったのである。<(注18)>・・・普仏戦争の原因はドイツ統一の影におびえたフランスの過剰反応と自己過信にあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%B9%E9%9B%BB%E5%A0%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (←エムス電報事件(Ems Dispatch)そのものの説明は省略する。(太田))
という、エムス電報事件に関する日本語ウィキペディアの言う通りでしょう。
なお、捕虜になったナポレオンは、プロイセン国王に対し、自分は戦争をしたくなかったが、フランス世論がそれを強いた、と語っている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Napoleon_III (太田)
(注18)エムス電報事件は1870年7月14日、普仏戦争開戦は7月19日だが、その2か月前の5月8日のフランス国民投票で、ナポレオンは、 7,358,000票対1,582,000票という圧倒的支持を集めて、前年の議会選挙時よりも200万票も支持を増やしていた上、7月6日にナポレオンがフランス陸軍参謀総長に対普戦争準備は整っているかと尋ねたところ、同総長は、自信満々にはいと答えた、という経緯がある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Napoleon_III 上掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E4%BB%8F%E6%88%A6%E4%BA%89
しかし、作戦は失敗し、軍は敗れ、勝利の風は多くプロイセン兵の上に生じて、フランス兵はこのために吹きつけられ、ついに今日に至る。
そして、パリ市民の帝を見ること、あたかも仇を見るに等しい。
これは帝の不幸というべきだろう。
帝は捕虜となり、国民から見捨てられ、ついにフランス国の帝位から降りることになった。
ああ、帝は己自身の知恵と勇気をもって自立し、フランス皇帝の地位に昇り、外でしばしば隣国と戦争し、勇気威力をここかしこで奮い、内では政権を掌中に握り、全国を丁重に治め、その威明をヨーロッパに轟かせることすでに18年、晩年に至ってその威明がまったく地に墜ちてしまったのである。
実に惜しいかぎりである。
また、私が密かに思うに、今、ヨーロッパ各国、その中でもイギリス、フランス、プロイセンの三国は文明開化していて強大で富力も盛んであるのは、おそらく世界の先駆けといえるだろう。
それにもかかわらず、その実情を観察すると、その人心は親しみがなく不誠実で、道義というものが皆無に等しい。
わが日本の魂をもってみるに、もし国の帝が敵の虜となったときは、全国民が憤り、わが身を忘れ仇を討つ。
ところが、文明の開花が極まった際の人心は道義疎かであることかくのごとしの状態に至る。
思うに、これは流れに従って生じる弊害なのだろう。
今や、ヨーロッパ各国の開化は実に手抜かりないといっても、嘆かわしいことは、ただこの道義心を達成できないということだ。」(69~74)
⇒もともと、ナポレオンの支持率は、パリ等の大都会では地方よりは低かった
https://en.wikipedia.org/wiki/Napoleon_III 前掲
とはいえ、戦争の成り行きが思わしくなくなった途端に手のひらを反すようなパリ市民等の態度に呆れ、フランス人の非人間主義性を批判し、かかる(日本人に比しての)英仏普(≒独)のそれぞれの市民の非人間主義性に気付いた、正元の感覚は確かなものだと思います。
もっとも、その原因を、「文明の開花」に求めた正元が、「文明」について、農業社会の到来ではなく、産業「革命」が念頭にあったのだとすれば、それは必ずしも正しくないわけですが・・。(太田)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その7)
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