太田述正コラム#8799(2016.12.18)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その13)>(2017.4.3公開)
「1月21日・・・パリ籠城中、市内と地方の書簡のやりとりはすべて・・・伝書鳩<(注27)>が仲立ちをしている。そのため、ドイツ軍はこれを妨げようとして、パリ城周囲の林の中に多数の鷹や鷲を放したといわれる。昨日、城郭外において国民衛兵が一羽の鷹を捕まえたという。」(245)
(注27)「伝書鳩<は、鳩の>・・・帰巣本能を利用したものであり、鳩舎へ帰還するため、一方通行が基本。通常、伝書鳩は再び放鳩地点に戻ろうとはしない。往復通信を行うためには双方に鳩舎が必要であり、あらかじめ鳩を輸送しておかなければならない。・・・また、移動目標に向かって伝書鳩を送ること<も>できない・・・
ただし、特殊な例として「往復鳩」と・・・「移動鳩」が存在する。「往復鳩」は、文字通り2つの地点の鳩舎を往復するもの。寝場所とエサ場の棲み分けによって・・・訓練<す>る。一方「移動鳩」は、・・・戦場において移動式の鳩舎を探し、そこへ鳩が帰ってくるもの。放鳩後に原隊が移動しても、訓練された軍用移動鳩は、移動先の鳩舎(車輌)へ帰巣することができた。・・・
<伝書鳩は、>ローマ帝国以降は主に軍事用の通信手段として広く使われ、産業革命期以降に最盛期を迎えた。第二次世界大戦時<も、英>軍は、約50万羽の軍用鳩を飼っていたと<され、>・・・広く使われたため、ドイツ軍は対抗手段として、タカを使って伝書鳩を襲わせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E6%9B%B8%E9%B3%A9
⇒伝書鳩が先の大戦時になお使われていたとは気付きませんでした。(大田)
「1月23日・・・今日、フランスの地方の所新聞が回って市内に届いたものを見た。
正月7日付、プロイセン軍本陣発の新聞記事において、このたびプロイセン軍の本陣に各国の軍務士官が軍陣や戦争の事情・状態を監察するために来ているとあった。
そこには、ロシア人、イギリス人、オーストリア人、イタリア人、そして、日本人の士官9名が来たと記してあるのだ。
私はこの文を見て、心が高ぶり躍り上がった。」(253)
⇒普仏戦争を視察に来たのが、欧州大陸の諸大国・・ロシアもここではその中に入れていいでしょう・・以外には日本のみ、というのは、当時の日本の指導層を形成していた武士出身者達の軍事に対する関心の高さの現れですが、この時点ではまだ欧州大陸諸国の一つとも言えたオスマントルコからどうして誰も来ていないのか、(南北戦争という大内戦があったばかりの)米国はどうして誰も派遣しなかったのか、等様々なことを考えさせられます。
なお、これだけ(久方ぶりの欧州大陸における大戦争たる)普仏戦争に注目した割には、「普仏戦争に勝利して世界的に注目を集めていたプロイセン陸軍のメッケル参謀少佐<を>1885年(明治18年)に陸軍大学校教授として招請<し>、その助言を受けて1886年(明治19年)に大山巌らによる<陸軍>改革が進められ<、>この時期に帝国陸軍は大きく変化し、1888年(明治21年)にフランス陸軍を範にとった拠点守備を重視した鎮台制から、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団を運用する積極防御を重視したプロイセン式への改組が行われた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D
ところ、日本の陸軍の仏式から独式への転換に随分時間がかかったものだ、と、振り返ってみて思いますね。
なお、申し上げるまでもなく、日本の海軍は一貫して英式でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D (大田)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その13)
- 公開日: