太田述正コラム#8803(2016.12.20)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その15)>(2017.4.5公開)
 「2月10日・・・今夜、一報あって、わが国日本の政府軍視察使の諸官員がパリに到着したと聞いた。
 私は見ていた新聞を放り出し、走ってその旅館に行き、初めて御一行《脚注》に拝謁した。・・・
《脚注》大山彌助(のち、巌と改名)、品川彌次郎、林有造らである。」(291)
⇒維新の時の雄藩の薩長土の揃い踏み、という感じですね。
 ちなみに、大山は、「明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学」しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B7%8C
し、品川は、「明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学」しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BC%A5%E4%BA%8C%E9%83%8E
し、林については、「明治3年・・・8月、普仏戦争視察の官命が板垣<退助>に下った<けれど、>板垣は、藩の都合で外遊することが出来なかったため、代りに林を推せんし・・・8月28日通弁として中浜万次郎を同伴、横浜を出港、<米国>を経て英国に渡り、更にベルリン、パリーを見学し、戦線を視察して翌4年4月7日、無事に横浜港に帰着し」ています。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p012.html (太田)
 「2月20日・・・フランス政府派遣部所在地のボルドーに755名の議員が参集し、そこでティエール<(注31)>を推挙し、フランス共和政府の大統領に就けた<(注32)>。・・・
 (注31)Louis Adolphe Thiers(1797~1877年)。弁護士出身の「フランスの政治家・歴史家。<ルイ・フィリップの下で>首相を2回・・・務め、フランスの<第>2代大統領(第三共和政の初代大統領・・・)を務めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB
 英語ウィキペディアはエクス=アン=プロヴァンスまたはエクサンプロヴァンス(Aix-en-Provence)の法学部卒としている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Adolphe_Thiers
 大学名を記していないのは、当地の高等教育機関の名称等が時代によって大きく異なるからだろう。(典拠省略)
 いずれにせよ、その後継たる、Universite d’Aix-Marseilleはフランス語圏最大の大学だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Aix-Marseille_University
 (注32)正しくは、この時点では大統領ではなく、フランスで初めての行政長官([Chef du pouvoir executive=Chief Executive of the government。]1871年2月17日~8月30日)だ。(上掲、及び、
https://en.wikipedia.org/wiki/Adolphe_Thiers([]内))
 国防臨時共和政府の首班トロシュ<(33)>将軍は本日、政府首班を辞職した。
 (注33) Louis-Jules Trochu(1815~96年)。「フランスの将軍、政治家。アルジェリア征服、クリミア戦争、イタリア統一戦争に出征、1866年将軍となったが、第二帝政陸軍の無規律と無能を批判する著書を出版したためナポレオン3世の不興を買い、逆に民衆の人気を得た。<普仏>戦争初期の1870年8月14日、第二帝政最後のパリカオ内閣によってパリ軍事総督に任命され、9月4日の帝政崩壊後に成立した国防仮政府の首班に推され、首都の籠城戦を指導した。しかし、専守防衛の「トロシュ・プラン」は降伏路線と受け取られ、パリ民衆の不信を招き、休戦条約締結1週間前の1871年1月21日に軍事総督を辞任。2月に国民議会に選出され、オルレアン派に位置したが、翌1872年辞任、政界を退いた。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%A5-106944
 仏陸士卒。
https://en.wikipedia.org/wiki/Louis-Jules_Trochu
 トロシュは<昨1870年>8月下旬、パリ総督職という尊職を得てパリ城に入り、9月4日に共和政府の首班職を兼務したため、その地位は全国でトロシュの右に出る者はいなくなった。
 政府の政策および野戦の謀略のすべてが彼の胸ひとつに任されたのだ。
 パリ籠城から1月28日に休戦を求める日に至るまでの5ヶ月間、ついに一度も奮戦し防衛の手だてを尽くす治績を残さなかった。
 彼の器がその職務に堪えられなかったというべきか。」(309~311)
⇒正元はトロシュに厳しいけれど、フランスが敗戦が不可避な状態で開戦し、案の定、ほぼ連戦連敗でパリ籠城に至った以上は、ないものねだりと言うものでしょうね。(太田)
 「3月2日・・・<講和>条約案の評決<が>・・・国民議会<で>・・・546対107<で>・・・採択され・・・条約<は>批准された・・・。<(注34)>」(319)
 (注34)講和条約は、「アルザス・ロレーヌの2州をドイツに割譲すること」等を内容としたもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB
(続く)