太田述正コラム#8805(2016.12.21)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その16)>(2017.4.6公開)
⇒交渉経緯の概要は次の通りです。
「ビスマルクが要求したアルザス=ロレーヌ地方割譲を<仏国防政府(臨時政府)が>拒否したため、<普仏>戦争は続行された<ところ、ビスマルクは、>パリ包囲戦中の1871年1月にドイツ軍の大本営がおかれていたヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉にあたり、ドイツ統一国家ドイツ帝国を樹立する合意を取り付け、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF (前掲)
という背景の下、「ティエールは国民議会の5人の議員達からなる代表団と共に、ビスマルクが待ち構えている、ヴェルサイユに赴いた。
彼は、ホテルに到着すると、プロイセンのモルトケ元帥と会った。
モルトケは、「あなたはビスマルクと交渉することになっていて幸運だ。
私だったならば、あなたの国を30年間占領し、占領明けにはフランスはなくなっていただろう。」と語った。
最初の会合の時、ビスマルクは、アルザス州と80億フランを要求した。
ティエールは、フランスは50億までしか払えないと執拗に主張し、ビスマルクはその額まで降りたが、今度は、ロレーヌの一部と<アルザス=ロレーヌの外の>メス<(前出)>も寄越せと執拗に主張した。
議論は長く険しいものとなった。
ある時点で、消耗し切ったティエールは、取り乱し、泣いた。
ビスマルクは、彼を支えてソファーに座らせ、自分の外套をかけてやり、語りかけた。
「ああ、可哀そうなティエールさん、フランスを真に愛しているのはあなたと私しかいない」、と。
交渉は再開され、ティエールは、<賠償>金減額の見返りに、アルザス、及び、ロレーヌの一部、を譲った。
彼は、フランスの他の代表達に、「我々が2つの諸州を失ったところで大したことではない。また別の戦争が起きるだろうが、その時にフランスは勝利を収め、それらを取り戻すことだろう。しかし、今、ドイツに与える数十億フランを我々は二度と取り戻すことはできない」、と語った。
<但し、>ティエールは、[アルザスの南西端の]要塞都市ベルフォール(Belfort)はフランスにとどめておくことを執拗に主張した。
ビスマルクは、講和条約が調印されたら、プロイセン軍がシャンゼリゼ通りで短時間勝利パレードを行った後、<パリに>この条約が批准されるまで留まることができる、という条件の下でこの町を譲った。
ティエールは、受諾する以外の選択肢はまずない、と感じた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Adolphe_Thiers 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%9C%8C ([]内)
このシリーズで取り上げた本の脚注には、「僅か3千の兵力で最後まで果敢に抵抗したベルフォールを敵に渡したくない思いが新政府の諸閣僚の胸を占めたのである。この城塞を守りとおしたダンフェール=ロシュロー<(注35)>中佐の名は今のパリ・メトロの名に残っている。」(317)とあります。(注36)
(注35)「戦略的・・・重要拠点都市のベルフォールには、17世紀に・・・築<かれ>た要塞があった。1814年にはベルフォール要塞は反ナポレオン連合軍の進攻にも耐え、降伏したのは皇帝の退位後だった。
1870年に普仏戦争が勃発すると、ベルフォールの防衛はダンフェール-ロシュロー[(Denfert-Rochereau, Pierre-Marie-Philippe-Aristide)]大佐[(1823~78年)]に託された。<この要塞>は直ちにプロシア軍に攻囲され<たが、同>・・・大佐は正式な命令書を受け取る前に降伏することは念頭に微塵もなかった。
栄光に満ちたこの防衛戦によってベルフォールと<その>管轄地域・・・の五つの小郡は、プロ<イセン>に割譲され<た>・・・アルザス地方から切り離された小県と<されて>フランス領に留ま<った>。」
http://blogs.yahoo.co.jp/paris18montmartre_0103/68037249.html
https://kotobank.jp/word/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%3D%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%BC-95457 ([]内)
なお、脚注では中佐、上掲等では大佐とあり、籠城当時は中佐で最終階級が大佐だったという可能性も排除はできないが、彼の仏語ウィキペディア
https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Philippe_Denfert-Rochereau
でも籠城当時の階級こそ出て来ないものの、当時、部下15,000人とあるので、少なくとも旅団級であり、これを中佐が率いたとは考えにくい。
(注36)「1879年には城門跡の広場が・・・<同>大佐に因んでダンフェール=ロシュロー広場と改名され、駅の方もダンフェール=ロシュロー駅と呼ばれるようになった」ところ、この時点では、同駅は鉄道の地上駅であり、地下駅化したのは1895年で、地下鉄が乗り入れたのは、1906年以降。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%BC%E9%A7%85
さて、ビスマルクが、フランスに「甘」かったのは、(フランス大好き人間であったなどとは聞いたことがない)彼が、英国等の干渉を回避しつつ、新生ドイツ帝国の門出を盤石なものにするために、適当なところで手を打ったというだけのことであり、どうやらそんな落着点も読めないまま、ティエールが泣き崩れたのは、政治家失格です。
(プロイセン側について言えば、モルトケは軍事指導者としてこそ傑出していたけれど、およそ政治家たりえなかった、ということです。)
しかし、領土は取り戻せると考え、領土で譲っても賠償金は出し惜しんだのは、ティエールの歴史家としての目の確かさを物語っており、実際、その約半世紀後、第一次世界大戦に「勝利」したフランスは、アルザス=ロレーヌの奪回に成功するわけです。(太田)
「3月3日・・・一昨日3月1日の朝に・・・パリに入城<した>・・・プロイセン軍の全軍がパリを・・・今朝10時、・・・退去した。
これは昨朝、和睦条約が整ったからである。」(322~323)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その16)
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