太田述正コラム#8807(2016.12.22)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その17)>(2017.4.7公開)
3 終わりに代えて
 正元自身による「跋(奥書)<(注37)>」、洋二郎君による「渡正元 略歴」、松井道昭氏による「監修者 解説」、同じく「監修者あとがき–渡正元『巴里籠城日誌』と大佛次郎『パリ燃ゆ』–」、訳者の真野文子さんによる「訳者あとがき」、と続いてこの本は終わるのですが、予定を変更して、この部分に係る転載・コメントは行わないまま、このシリーズを終えることにしました。
 (注37)細かい点を一言。恐らく、「跋<(ばつ)>」は正元自身が付けたもの、「奥書」は、洋二郎君や真野文子さんらが「訳」したもの、なのだろうが、前者は「後書き」の意である
https://kotobank.jp/word/%E8%B7%8B-602177
のに対し、後者は「著作や写本などの巻末の、著者名・書写年月日・来歴などについての書き入れ」の意
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/30330/meaning/m0u/
なので、少し、ニュアンスがズレているように思われる。
 なお、幕末を扱った史書や小説には、このシリーズで登場したドイツ製のクルップ砲と共に、イギリス製のアームストロング砲、がしばしば登場します(注38)が、この両者をいわば月旦し、比較した囲み記事を書こうと思いつつ、果たせませんでした。
 (注38)例えば、クルップ砲については、「1867年、<クルップ社>はナポレオン3世が主催するパリ万国博覧会には化け物のような大きさの巨砲を出品した。当時オランダに留学中の榎本武揚や赤松則良らは<同社>を訪れ社長と会見している。同時に当時建造中の軍艦開陽丸に搭載する大砲を注文し、最終的に18門が搭載された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83% 前掲
 「開陽丸は江戸大老井伊直弼の意思を継いだ安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦である。・・・備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門。・・・オランダで造艦され、1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ帰港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが、徳川軍艦としてわずか1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷・江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E9%99%BD%E4%B8%B8
、また、アームストロング砲については、「1863年の薩英戦争では、・・・<その>垂直式鎖栓の破損事故が頻発。使用された21門は365発の砲弾を発射したが、その間に28回も射撃不能となる故障が起きたとされる。加えて旗艦ユーリアラス搭載の前部110ポンドアームストロング砲が暴発して、乗員が死傷する重大事故まで発生した。なお英国はこの暴発事故を隠蔽し、暴発事故による死傷は島津軍の砲撃によるものと発表したため、現在でも島津軍の砲撃は英国軍に損害を与えたとの誤解も見られる。・・・
 <その後、>佐賀藩が積極的に購入したとされ、<同藩で>オリジナルを元にコピーした国産アームストロング砲も生産されたとされるが、現存しないため詳細は不明である。
 しかし佐賀藩の冶金技術では、オリジナルと同等の剛性を持つ複合砲身の製造は不可能であったのは明白とされており、垂直式鎖栓の機構を単純にコピーしたものを国産アームストロング砲と称したのではないかとする説が濃厚である。
 <なお、>幕末期の史料上でアームストロング砲と記述されている場合、これら後装式ライフル砲だけではなく、前装式ライフル砲をはじめとした英国アームストロング社が製造販売した火砲全般を指すものとして使われることが多く、研究者の間でもかなり厄介な問題として立ちはだかっている。
 そのため、幕末期の日本で後装式のアームストロング砲がどれほどの活躍をしたのかは、学術的には未だ不明であるが、研究者間ではおおむね活躍には否定的な見解で一致している。」
http://repmart.jp/blog/history/armstrong-gun/
といった具合に・・。
 というのも、「(注38)」中のアームストロング砲の箇所からも分かるように、一体、どのクルップ砲とどのアームストロング砲を比較したらよいのか、すぐに構想が纏まらなかったからです。
 (この「問題」があることが大きいと思いますが、例えば下掲
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1134770141
など、同じサイトでも書き手によって言っていることがまちまちになってしまっています。)
 とまれ、正元を通じて、私見では欧米の近代と現代とを分かつ分水嶺・・ドイツ統一国家の成立に象徴されています・・となった普仏戦争、を振り返ることができたことをうれしく思います。
 それにしても、有為のご先祖様の事績をしのぶ、子孫達の会があり、一緒になって本を製作し出版する、なんて、羨ましい限りですね。
(完)