太田述正コラム#8819(2016.12.28)
<米リベラル知識人の内省三(その7)>(2017.4.13公開)
このシステムは、更に遡れば、我々の環境・・ヒトが晒されているところの、コンテンツ、教育、空気、及び、メッセージ群の世界・・の影響を受けている。・・・
「一人の女性がある時私に、「事故で赤ん坊や子供が殺されたというニュースを聞くたびに、私は息を飲む。
しかし、アナウンサーが、それが[ベドウィンの町である]ラハト(Rahat)や他のアラブ人の町ないし村で起こったと付け加えた時、私は、思わず安堵のため息をついてしまう」、と語ったことを、<研究者>は思い起こす。
「この、両者の側で経験される力学は、脳の活動にもまた反映されている」、と。・・・
「敵意のレベル、と、歩み寄る(compromise)つもりがない度合い、が高い場合は、脳の活動における偏向(deviation)は、より大きく、かつ、より決定的になることを知った」、と彼は言う。
彼によれば、この研究から良いニュースも出現した。
すなわち、状況は、変えられないわけではないし不可逆的プロセスでもない、ということだ。
我々の基本的な共感諸メカニズムは依然機能しているのだけれど、外からの諸影響、すなわち、諸偏見や諸先入観が共感の階統を生み出している<だけだ、>というのだ。・・・
「哲学やヒトの思想の始まり以来、人々は、諸個人や諸集団の間の憎しみの源泉を解き明かそうとしてきた」、と彼は言う。
個々の時代がそのことに自身の意味を付加してきた。
インドの諸ヴェーダ(Vedas)から、そして、ユダヤ教の聖書的諸源泉を通じ、マルクス(Marx)とフロイト(Freud)に至るまで・・。・・・
⇒イスラエルで行われた研究をイスラエルの新聞でイスラエル人たる書評子が紹介していることから当然と言えるのかもしれませんが、インド亜大陸のアーリア人をあげた以外は、ユダヤ人ばかりを並べましたね。
このうち、「生活に必要な労働を超えた剰余労働(不払労働)が対象化された価値である<ところの、>・・・剰余価値」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B0%E4%BD%99%E4%BE%A1%E5%80%A4
「が搾取されるということは、資本主義社会に特有なことではなく、それ以前の奴隷制および封建制社会においてもみられた。そこでは剰余労働の搾取は感覚的に明らかであったが、商品経済に基づく資本主義社会においては、この本質的関係は隠蔽されているので、科学的分析が必要となるのである」
https://kotobank.jp/word/%E5%89%B0%E4%BD%99%E4%BE%A1%E5%80%A4-79950
、と喝破したマルクスだけが、「奴隷制および封建制社会」、すなわち、農業社会の到来が、搾取、つまりは人間の堕落、をもたらしたことを正しく指摘したわけです。
果たして、この指摘を史上初めて行ったのがマルクスであったかどうかまでは詳らかにしませんが・・。
ところが、釈迦は、人間の堕落たる貪欲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AA
の史的起源など詮索することなく、この堕落を克服するための正しい方法論・・念的瞑想・・を提示した(コラム#省略)のに対し、それから2,500年前後も経過した後、マルクス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
は、人間の堕落の史的起源こそ正しく同定したけれど、この堕落を克服するためと標榜しつつ、資本主義下で生産力が高まった段階における(注6)、被搾取者達たる労働者達による搾取者達たる資本家達からの権力の奪取
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E9%9D%A9%E5%91%BD
、という誤った方法論を唱えてしまったわけです。
(注6)マルクスは、「資本主義こそが生産力の急速な上昇をもたらすと同時に次の社会を建設する変革の担い手を育てる・・・、と考えた」
http://www.econ.mita.keio.ac.jp/staff/nobu/lecture/study-guide.htm
なお、釈迦の方法論は正しかったものの、その方法論でもって、堕落していた人間がその堕落を克服した後、堕落したままの他人達の間でどうして生き長らえていくのか、また、仮に堕落していない、或いは堕落を克服した人間達からなる社会があったとして、その社会を、堕落した人間達からなる他の諸社会の間でどう維持させていくのか、というアポリアに釈迦が取り組んでくれていないことに注意が必要です。
このアポリアを、思想家や宗教家の力を借りることなく、自ずから解決していたのが、(釈迦の提示した方法論とは基本的に無縁の)日本社会、とりわけ弥生時代以降の日本社会であることを、太田コラム読者達だけは知っています。(太田)
「共感と憎しみの問題は、より深い、原始時代からある問題と結び付いている。
人類は、根本的には善なのか悪なのか、という・・。
我々の調査が示唆するのは、人間は、少なくとも最初の0.5秒は、善だ、ということだ」<、と彼は言う>。」
私のとりあえずの仮説はこうです。
「教義を持つ宗教は、基本的に人間の堕落を克服することを意図して生まれたにもかかわらず、その信徒達は、異なった教義を持つ宗教や宗派の信徒達・・その中には広義の無神論者達や無宗教者達を含む・・を敵視するベクトルを内包しており、意図に反して、人間を一層堕落させてきた。
現在、社会内に大きな対立軸があって、その軸の両側間において人間主義の毀損が顕著であるのが、スンニ派信徒対シーア派信徒の中東全般及び北アフリカ、ユダヤ教徒対イスラム教徒のイスラエル、そして、キリスト教原理主義者達対リベラルキリスト教「信徒」達の米国、であることは偶然ではない。」
(完)
米リベラル知識人の内省三(その7)
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