太田述正コラム#8827(2017.1.1)
<米リベラル知識人の内省三(続)(その2)>(2017.4.17公開)
2 ブルームの真意
(1)既主張部分
「・・・共感は、スポットライトのように働き、ここにいる現在の一人の個人に注意を集中させる。
これは正の諸効果を持ちうるが、近視眼的で不公正な道徳的諸行動に導きうる。
しかも、それは先入観の影響を受ける。
<実際、>実験室での諸研究や逸話的諸経験は、共感が生まれ出るのは我々のように見える者、魅力的な者、そして、脅威を与えず良く知っているもの、に対してであることを示している。
共感は不要なものではない(has its place)が、共感<それ自体>が提供しないところの、一種の公正さと公平さに向けた熱望を我々が抱くように、理性が共感を導かなければならない。・・・
共感は、もちろん、単なる反射作用ではない。
我々は、共感すべく選択することや他者達のための共感を掻き立てることができる。
しかし、この柔軟性は呪いでもありうる。
不法移民達のような、脆弱な諸集団に対して憎しみを掻き立てるために、強姦や暴力行為の犠牲者達の物語を冷笑的な政治家達が語って、これらの犠牲者達への我々の共感を利用する場合のように、他者達によって、我々の共感は不当に利用(exploit)されることが可能だからだ。・・・」
(2)新主張部分
「・・・人を助ける諸職業に従事している人々にとっては、同情(compassion)と理解(undrstanding)は決定的に重要だ。
しかし、共感はそうではない。
他者達の苦しみを余りに鋭く感じることは、疲労困憊(exhaustion)、燃え尽き(burnout)、そして、非効果的な仕事、をもたらしてしまうからだ。・・・
<もとより、>合理性(rationality)だけでは良い人間として十分ではない。
何らかの類の動機付け(motivation)も必要だ。
そのためには、彼らの痛みを感じることなく他者達を心配する(caring for)ことだ。
そうすれば、万事めでたしめでたしだ。
<繰り返すが、>共感と同情とは異なる(distinct)のだ。
瞑想の力についての若干の魅惑的な作業を含むところの、最近の神経科学の諸研究は、同情は共感とは異なるけれど、同情は共感の諸便益を全て有しつつその諸コストを殆ど有さない、ということを示している。
人生における最も深い諸愉楽、例えば、諸小説、諸映画、そしてテレビに関わるにあたっては、共感的にそれらと繋がることが求められる。
<だから、>共感は不要なものではない。
しかし、良い人間であることに関しては、より良い諸代替案があるのだ。」
3 終わりに
瞑想に特に言及していることからすると、どうやら、ブルームは、同情(compassion)という言葉を、私の言う人間主義に近い意味のものとして使おうとしているようですね。
人間主義的なものに目を付けている、という限りにおいては、ブルームは評価されるべきでしょう。
ところで、日本語の場合は、「あはれ」・・これを本居宣長が「もののあはれ」(コラム#3979、5366、6028、6034、6035、6043、6055、6060、6080、8663、8786)と言い換えた・・がほぼ「人間主義」と同義であるわけですが、それらが、対等性に立脚しつつ、対人間のみならず、生物全般、更には自然に対しても用いられるところからも分かるように、人間関係の上下とは無縁の「人間主義」とは違って、日本語の同情にも上から目線の趣があるように、英語の同情・・compassionやsympathyやpity(注)・・にも上から目線の趣があり、人間主義とは異質である、と言ってよいのではないでしょうか。
(注)compassion–(切実な)同情(心), 哀れみ 【類語】 ⇒pity
http://ejje.weblio.jp/content/compassion
sympathy–同情,思いやり,あわれみ
http://ejje.weblio.jp/content/sympathy
そうである以上、ブルームは、新たな言葉を作り出す必要があったように思います。
いずれにせよ、米国の・・「欧米の」と言ってもいいでしょう・・知識人達が、人間主義を正視するようになるには、まだまだ時間がかかりそうですね。
米リベラル知識人の内省三(続)(その2)
- 公開日: