太田述正コラム#8843(2017.1.10)
<米支関係史(その1)>(2017.4.25公開)
1 始めに
ジョン・ポムフレット(John Pomfret)の『(The Beautiful Country and the Middle Kingdom)』のさわりを書評等をもとにご紹介し、私のコメントを付します。
A:https://www.washingtonpost.com/opinions/china-and-the-united-states-a-long-history-of-disappointments/2016/12/16/a7b50016-8984-11e6-bff0-d53f592f176e_story.html?utm_term=.af6511ac97d0
(12月17日アクセス、書評(以下同じ))
B:http://www.nytimes.com/2016/12/30/books/review/beautiful-country-middle-kingdom-john-pomfret.html?_r=0
(1月5日アクセス(以下同じ))
C:http://www.economist.com/news/books-and-arts/21711021-two-big-countries-share-sense-exceptionalism-they-are-both-attracted-and-wary
D:http://supchina.com/2016/12/22/sinica-extra-john-pomfret/
(本の抜粋)
なお、ポムフレットは、スタンフォード大卒、同大修士(東アジア研究学科)で、(同大交換留学生として)南京大、及び、(フルブライト奨学生として)シンガポールの東南アジア研究所に留学、AP通信の記者として世界各国で取材活動を行い、現在、ワシントンポストの編集者であり、漢語の会話・読み書き、仏・日・セルビア/クロアチア語の会話ができる、という人物です。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Pomfret_(journalist)
日本語が読めないというのですから、私見では、それだけで、支那の近現代史を書く資格はないわけですが、狙いは、現在の米国の識者の間で今後通説となっていく可能性の高い支那観を知ることなので、ご理解のほどを。
2 米中関係史
(1)本の抜粋から
「・・・実際のところ、<米支>双方の側は、米国の建国以来、相互に作用しあい影響を与えあってきた。
米国人開拓者達を西部へとおびき寄せたものは、単に無償の土地だけではなかった。
それには、支那に物を売り込む夢もあった。
米国の理念(idea)もまた、支那人達を鼓吹し、彼らを近代と外の世界へと引き寄せた。
米国の科学、教育理論、そして技術、は支那に流れ込んだ。
<その反対に、>支那の美術、食品、そして哲学は流れ出た。
⇒ツッコミどころが一杯あるけれど、ここは堪えることにします。(太田)
当時から、脈絡ごとに、この二つの人々と彼らの種々なる諸政府は、世界の二国関係中で、最も多面的な、そして今日においては最も重要な、ものを丹念に作り上げて来た。・・・
⇒まず、少なくとも中共側から見て、米支関係が「今日においては・・・世界・・・で最も重要な・・・二国間関係」である、とはまだ言い切れないのではないか、と思います。
というのは、直近から遡っていくと、中共の外交部長(外相)は、日本畑、米国畑、米国畑、日本畑(下掲)、だからです。
・王毅 駐日大使から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%AF%85
・楊潔チ 駐米大使から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%BD%94%E3%83%81
・李肇星 駐米大使から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%82%87%E6%98%9F
・唐家セン 在外最終ポストは駐日公使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%AE%B6%E3%82%BB%E3%83%B3
・銭其シン 駐ソ大使館参事官を経て在外最終ポストは駐ギニア兼ギニアビサウ大使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E5%85%B6%E3%82%B7%E3%83%B3
これ以上遡っても、日米との国交回復以前なので、意味がない。
いずれにせよ、米支関係が、「世界の二国関係で最も多面的な・・・もの」でないことは、(米支関係の歴史の、例えば、日支関係に比しての圧倒的な短さをあげるまでもなく、)特段の典拠を付ける必要などありません。
日支関係に決まっているからです。(太田)
米国の最初の諸富は1783年から1800年代初期にかけて、支那貿易で形成され、この交易からの諸利潤が米国の産業革命の財源になった。
1830年代には、40幾人かの米国人達が広東の郊外の小さな交易所(trade outpost)で生活し、自分達の実力をはるかに超える活躍をした。
彼らが汗を流したことで、米国は、強き英国に次いで、中華王国の二番目の交易相手国になった。
支那の役人達は、その頃、やがて伝統となるであろうことを始めた。
すなわち、米国を支那の諸敵に対する防波堤と見るようになったのだ。
長年にわたって、彼らは、英国、ドイツ、ロシア(或いはソ連)、そして日本に対抗するための同盟を米国に提案することになる。
⇒支那に大昔からある「夷を以て夷を制す」(注1)という言葉をポムフレットは知らないのでしょうか。
(注1)「《「後漢書」鄧禹伝から》外国を利用して他の国を抑え、自国は戦わずに利益を収め、安全を図る。夷を以て夷を攻(せ)む。以夷制夷(いいせいい)。 」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%B7%E3%82%92%E4%BB%A5%E3%81%A6%E5%A4%B7%E3%82%92%E5%88%B6%E3%81%99-429847
米国は、「最近」における、諸夷のうちの一つに過ぎない、というのに・・。(太田)
最初の米国のキリスト教宣教団が支那に到着したのは1830年代のことだった。
彼らは、しばしば、古き儒教の信条(creed)に染まっていた、それを望まぬ人々に、イエスを押し付けるという、米国の文化的帝国主義の不穏当な一事例として挙げられるが、彼らは支那の発展にとって決定的に重要だった。
欧米で教育を受けた支那人達と共に、彼らは、伝統的正統(orthodoxy)の締め付けを破壊する諸手段を供給した。
彼らは、支那人達に、欧米の、科学、批判的思考、スポーツ、工業、そして法、を教えた。
⇒それらが殆ど実を結ばなかったからこそ、1911年に辛亥革命が起こったのです。(太田)
彼らは、支那に最初の諸大学と諸病院を確立した。
これらの諸機関は、今では名前が付け替えられているけれど、依然として、支那におけるそれぞれの分野における最良の存在であり続けている。
米国の女性宣教師達は、女嬰児殺しや纏足という野蛮な諸習慣に対する十字軍となり、近代支那史における、最大の人権進展を達成するのを助けた。
⇒以上が正しいとすれば、支那人達は、米国人達を含むキリスト教宣教師達に感謝の念を抱いていてしかるべきところ、必ずしもそうではないからこそ、現在なお、新旧キリスト教も、他の諸宗教と並びとはいえ、中共によって厳しい国家統制下に置かれているのです。(太田)
(続く)
米支関係史(その1)
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