太田述正コラム#8845(2017.1.10)
<米支関係史(その2)>(2017.4.26公開)
米国人達がキリスト教を支那にもたらす一方、支那南部から労働者達が金を求めてカリフォルニアに殺到した。
彼らは、1860年代になると、米西部において、外国で生まれた人々の中で最大の人口を占めた。
金を選鉱鍋で掬わなかった者達は、西部の建設を行うことになった。
彼らは、サクラメント(Sacramento)川<(注2)>の三角州を浚渫し、史上最も豊かな農業諸地帯の一つを創造した。
(注2)「カリフォルニア州を流れるカリフォルニア州最長の川である。・・・カリフォルニア州北部に位置するカスケード山脈のシャスタ山に源を発し、コースト山脈とシエラネヴァダ山脈との間のサクラメントヴァレーを南西に流れる。・・・河口では・・・サクラメント川デルタを形成しサンフランシスコ湾へ注ぐ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E5%B7%9D
彼らは、<また、>東と西の二つの海岸を結ぶ大陸横断鉄道の半分を敷設した。
彼らの八百屋群、洗濯屋群、野菜畑群、そして、薬草群を貯めこんた薬屋群、によって、彼らは、それなしでは西部が勝利を収めることができなかったところの、必須の諸サービスを提供した。
1870年代には、主流の米国人達は、支那人達に敵対的になった。
米議会は、1882年に、支那人勤労者達を米国から締め出すことで、彼らを、米国で禁じられた最初の民族(ethnic)集団とした。
⇒それが、当時のサンフランシスコ総領事の黄遵憲(コラム#7989)を始めとする支那人知識人達をどれだけ憤激させたかを全くスルーしているポムフレットには、呆れるほかありません。(太田)
しかし、支那人達はやってくることを止めなかった。
そして、彼らは、支那人商人達から集められた諸資金を使って、米国の最良の弁護士達を雇い、多数の人種主義的諸法や諸布告に挑戦した。
これらの裁判事例群は、米国人達全員の市民権の改善に大いなる貢献を行い、例えば、米国の黒人達の「分離するが平等(separate-but-equal)」の教育システムの取り壊しの精神的支えとなった。
<しかし、>その人種主義にもかかわらず、米国は、多くの支那人達が諸夢を実現することのできる地であり続けた。
支那人達が西部一帯で追いまわされたのは、単に彼らが違っていたからではなかった。
彼らは、その勤勉さでもって、競争相手の白人開拓者達と競い合い脅威を与え、白人達をより懸命に働かせたのだ。
このような、<支那人達が、>米国で繫栄する能力、及び、全ての米国人をより競争的にすること、は今日に至るまで続いている。
若干の米国人達が支那人達を憎んだ一方で、他者達は、支那がうまくやることに深い関心を育んだ。
商業活動が、欧州、南米、日本、その他、への米国のアプローチを支配したが、英国を例外として、支那に対するものに比べて、これらの諸場所に対する<米国人達の>感情的愛着は小さかった。
⇒それがどうしてかも端折っているのですから、ポムフレットは都合の悪いことには、ことごとく口を拭うことにしたのでしょうね。
私に言わせれば、当時の米国人達は、英国や欧州諸国に対しては、経済的にはともかく、文化的には誇れるものは何一つなく、劣等感を抱いていたことから、優越感を抱けるところの、後進国の割には知力の高い人々が住む大国支那に目を付け、そこでカネを稼がせてもらいつつ、キリスト教や近代的思想・事物でもって、支那人達を啓蒙してやろう、という、倨傲かつ身の程知らずの思いを抱いていた、ということです。(太田)
「食事は全部食べなさい。支那ではお腹をすかせている子供達がいるのよ」、というのが、米国人達の何世代にもわたった、夕食時のお題目だった。
また、「諸小銭(pennies)を支那に」、というのが、米中央部一帯の教会群における呼びかけであり続けた。
(続く)
米支関係史(その2)
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