太田述正コラム#8873(2017.1.24)
<米帝国主義の生誕(その6)>(2017.5.10公開)
「・・・北と西からは、恐らくは、19世紀初の南部諸平原の真の支配者達であるコマンチ族(Comanche)<(コラム#4068、4070、4072、5926)>の騎乗の力<(注6)>が轟きわたった。
(注6)「ウマをもっと上手に活用したのがコマンチ族です。・・・1680年のプエブロの反乱の際にウマを手に入れ、平原で機動性を生かしてバッファローを狩る最初の平原インディアンになりました(この時点では銃は伝わってきていません)。
おかげで人口は急増し、コマンチ族の勢力範囲も広がります。スペイン植民地や跡継ぎのメキシコにとってはやっかいな馬泥棒で、盗んだウマは毛皮商人や開拓者に売られました。<その後、>平原にいたアパッチ族は、コマンチ<等>と手を組んだ平原アパッチを除き、平原の南と西に追いやられてしまいます。」
http://www.jlifeus.com/e-pedia/10.culture&society/07.IndianWars/ptext/08.Apache.htm
「リオグランデ川流域を囲む沙漠は、19世紀半ばまで大規模な<欧米>人の侵入を排除した。スペイン伝道所は、・・・<この地に住む>プエブロのインディアンたち・・・の宗教者や宗教施設を殺害・破壊してカトリックへの改宗を強制したが、<プエブロ達>は伝統的な宗教を維持し続けた。キリスト教者による武力による宗教弾圧に対しては、1680年には・・・プエブロの反乱を起こし、武力で抵抗した。
・・・コマンチ族、アパッチ族などの略奪部族は彼らの伝統的な敵であった。スペイン人は1692年以降、彼らの伝統的な敵を共通の敵とすることで同盟し、首尾よく<この地>を再征服することができた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%AD
古典的な主権・・領域的に限界を劃された中での暴力の独占・・<が那辺にあるのか>は、1836年にテキサスがメキシコに対して自身を独立共和国と宣言した後においてもなお、この地域では明確ではなかった。
コマンチ族の襲撃者達はこの地全域を自由に動き回り、捕虜達、諸財、そして諸馬を獲った。
この地方の人口は、概ね、英国の大農場所有者達と彼らの奴隷達で構成され、この諸大農場は国の中の諸国を形成しており、そこでは、準主権的な所有者達が、<英国系の>人種と<大農場という>財産のおかげで暴力的権力を振るっていた。
同様、誰がこの国を本当にコントロールしているかも、常に明らかではなかった。
その当時、米国は、潜在的にテキサス共和国の併合を考慮していたが、更に悪いことには、英国が、米国の拡大を阻止し米国が外にいる間に綿花の供給源を<テキサスで>確保しようと望み、テキサスが独立を宣言した後にその場に姿を見せていた。<(注7)>・・・
(注7)「<英仏>両国は、米国との合併をしないという条件のもとでテキサス共和国を承認するようメキシコに勧めた。特に<英国>は、<米国>とのオレゴン地域の領有権の争いに加えて、<米国>の国力増大を阻止したかった。<英国>としては、テキサス共和国は綿花などの一次産品の供給地として、また自国の商品の供給地として、魅力があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%82%B9%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
⇒テキサス共和国は、結局、望み通りに米国に併合されるわけですが、プーチンのロシアの、クリミア半島(既遂)、ウクライナ東部(現在進行形)、等でのやり口と、この時の米国のやり口とはそっくりです。(太田)
南部の全域で、大農場の主人達はハイチと北部の多くでの奴隷制の廃止に反応して、米国の国に対する直接的挑戦姿勢をしばしば採り、闘争性を強化させた。
準軍事的にして自警団的な諸部隊が、この国の中で、とりわけ南部、において出現したが、それらは、準主権的な政治的当局の下で地方的孤立諸地帯を成していた。
そして、分離や<上位諸法令の>実施拒否(nullification)といった諸観念がその空中に漂っていた。
北部でもまた、政治的主権性の広範な分散(distribution)があった。
自作農たる家父長達によって統治された小農場群が田舎を支配していた<からだ>。
彼らは、極めて慎重に市場に参入していたが、生存のために必要としたものに関しては商業に依存しておらず、彼らの家族諸農園を小さな封土群として治めていた。・・・
<そのような状況下において、>共和党の政綱は、自由を「国家的」原則とし、南部の奴隷制とモルモン教<(コラム#440、470、815、1145、1198Q&A、1724、3596、5131、5217、5296、5333、5477、5483、5485、5536、5537、5542、5547、6261、6321、7112、7811、8254)>の一夫多妻制<(注8)>を、「野蛮性の双子の2遺物」として援用した。・・・
(注8)「モルモン教・・・の第2代主管長のブリガム・ヤングによる約束の地への・・・移動で・・・準州ユタ、現ソルトレイクシティに到着した際に一夫多妻制をとったが、[第4代主管長]ウィルフォード・ウッドラフの神から中止啓示により1890年に廃止されたとされる。このことと引き換えにより1895年に準州からユタ州に昇格した。ただし合衆国上院公聴会にて第5代大管長ジョセフ・フィールディング・スミスは一夫多妻状態にあることを認めておりモルモン教主流派では少なくとも20世紀初頭まで、またアリゾナ州など他州との州境においては、近年までみられたという。20世紀半ばにモルモン教主流派から分離したFDLS(モルモン教原理主義派)は現在も一夫多妻の教義を保持している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%AB%E5%A4%9A%E5%A6%BB%E5%88%B6
https://www.lds.org/scriptures/gs/woodruff-wilford?lang=jpn ([]内)
(続く)
米帝国主義の生誕(その6)
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