太田述正コラム#8899(2017.2.6)
<米帝国主義の生誕(続)(その5)>(2017.5.23公開)
 「・・・クリーヴランド(Cleveland)<(注7)>は、「帝国主義の諸体制(schemes)」と彼が呼んだところのものは、「我々の国家的使命(national mission)の危険なる諸逸脱(perversions)」であるとして、それに対して反対の声をあげ始めた。
 (注7)スティーブン・グロバー・クリーヴランド(Stephen Grover Cleveland。1908年)。「第22代および24代<米>大統領(任期:1885年 – 1889年、1893年 – 1897年)。歴代<米>大統領で唯一、「連続ではない2期」を務めた大統領である。・・・高率関税、銀本位制、インフレーション、帝国主義および商業者、農民および退役軍人への補助金に反対した。・・・1898年、後任のウィリアム・マッキンリー大統領(共和党)による米比戦争とフィリピン併合・・・に・・・反対し、<米>反帝国主義連盟を結成した。・・・父親はコネチカット州出身の長老派教会の牧師・・・バッファロー市内の法律事務所で法律を学び、1859年にニューヨーク州の司法試験に合格した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
 憲法で認められるに至っていたところの、黒人への選挙権付与の連邦政府による強制に反対し、支那人移民規制を強化・・米国を離れたら二度と戻ることを認めない・・した。また、インディアンは同化させるべきだとして、インディアン居住区の土地を個々のインディアンに分割して与えることとし、結果としてインディアン文化の衰退とインディアンの貧窮化を促進した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Grover_Cleveland
 ちなみに、クリーヴランドは、当時の民主党中の、保守的ないし古典的リベラル志向者達・・いわゆるバーボン民主党(Bourbon Democrat)の指導者格だったが、この綽名は、ブルボン王朝、しかも、その1815年から30年までの反動的なそれ、にあてこすって外野から付けられたものだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bourbon_Democrat
⇒クリーヴランドもまた、骨の髄まで人種主義者だった、と見てよさそうですね。(太田)
 「著者は、<また、>自分の、フィリピン、キューバ、ハイチ、メキシコ、及び、中央アメリカでの軍役について、「資本主義のためのギャング行為」であって、かつ、「大企業のための護衛」としてのものであった、と1930年代に厳しく描写したところの、元海兵隊将軍のスメッドリー・バトラー(Smedley Butler)<(注8)>の言を引用している。・・・」(B)       
 (注8)Smedley Darlington Butler(1881~1940年)。最終階級は海兵隊少将。当時までの戦功勲章最多受賞者。名門の大学予科のHaverford Schoolを、米西戦争志願のために中退したが、卒業したとみなされた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Smedley_Butler
⇒赫赫たる武功を挙げて、つまりは、大量の外国の「敵」や一般住民を殺害した上で、34年もの間勤務した海兵隊を円満除隊した後で、贖罪の旅に出た上であればまだしも、単に自国内で自分が関わった米国の諸戦争をこきおろす、というのはいかがなものかと思いますし、そのこきおろしの内容も間違っています。
 というのも、北米大陸の外での米国の戦争で、経済的理由を潜在的・顕在的主因として行われたものなど皆無(典拠省略)だからです。
 こういう次第で、私は、バトラーのような人物は、全く評価しません。(太田)
 ・・・カール・シュルツは、<セオドア・>ローズベルトを名指しして、彼の諸政策は、米国の人々をして、「羊の衣を着けた狼達で、非利己的な自由と人間性の旗手達であるかのようなポーズを取った蟒蛇のような土地奪取者達で、米国人達に対する中傷者達によって米国人達の偽善性と貪欲さについて語られてきたことが全て真実であることが証明されたところの詐称者達(false pretenders)である」、という非難に晒すことになるだろう、と主張した。
 ローズベルトは<かかる批判を>受け付けなかった。
 「もし我々が国として無に帰すならば、それは、我が人種の偉大なる戦闘的諸様相を蚕食するところの、カール・シュルツ、や、国際仲裁<依存主義者達たる>空しいおセンチな者達、のせいだろう」、と、彼はロッジに書いた。・・・」(E)
(続く)