太田述正コラム#0451(2004.8.24)
<京都・奈良紀行(その11)>

 (投票をありがとうございました。カネと色恋に係わるものが殆どの、しかも購読者数の桁が違うメルマガに囲まれて12位、というのは、われながらよく健闘した、と思います。)

  イ 大徳寺
京都の紫野にある大徳寺は、臨済宗のお寺ですが、茶の湯と切っても切り離せない関係があります。
まず、茶人村田珠光(1422??1502年)が大徳寺中興の祖である一休宗純(1394??1481年)に参禅し、印可を受けます。
また、茶人武野紹鴎(1502??55年)も大徳寺の僧に禅を学んでいます。
武野自身、堺の商家出身ですが、彼の弟子筋の堺の豪商たる茶人達は、堺の大徳寺派のお寺である南宋寺、そしてその本山である大徳寺と密接な関わりを持ちました。武野の女婿の今井宗久(1520??93年)、津田宗達、その息子津田宗及(???1591年)、そして千利休(1522??91年)らです。
こうして、大徳寺を中心として、次第に茶禅一味の思想が起こるのです。
千利休が、このように茶の湯と縁が深い大徳寺の、唐様山門の上に重ねる形で「金毛閣」を造り、そこに自分の木像を置いたために、豊臣秀吉(1536??98年)の怒りに触れ切腹を命じられた、という話は有名です。なお、大徳寺は秀吉が織田信長(1534??82年)の葬儀を営んだ場所でもあります。
(以上、http://www.digimake.co.jp/webtown/kita/daitoku/daitoku.html及びhttp://www.sengoku-expo.net/text/tea/J/K14.htmlによる。)

 大徳寺では、大徳寺本坊(特別参観)と大仙院を拝観しました。
 大徳寺本坊には、江戸初期に作庭された、枯山水庭園があり、その庭園の奥に国宝の唐門が見えます(http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/event/event-28)。
 次いで大仙院です。
 大仙院は大徳寺の塔頭の一つであり、歴代和尚には名僧が多く、そのうちの一人で沢庵漬けの発案者とされる沢庵宗彭は、紫衣事件(注4)で徳川幕府に抗弁した人として知られています。

 (注4)慶長十八年(一六一三)。徳川幕府は1613年に「勅許紫衣法度」、1615年には「禁中並公家諸法度」及び「大徳寺法度」を発令し、天皇から任命される住職(このうち、大徳寺及び妙心寺の住職は紫衣をまとうことを認められた)について、事前に幕府の承認が必要とした。1627年に幕府は、これら法令に違背して朝廷から住職に任命された者から、その権利と紫衣を剥奪した。沢庵は、抗議書を起草し、他の禅僧らとともに幕府にこの抗議書を提出したため、一時羽州上山へ配流されてしまう。また、時の天皇、第108代後水尾天皇(1596??1680年。在位は1611??1629年。http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn108.html)は、幕府へのあてつけのため、突然譲位してしまう。(以上、特に断っていない限り、http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/8490/takuan/takuan.html及びhttp://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/u-zen/017/yumeno01.htmlによる。)

次いで大仙院です。
この大仙院の国宝の方丈から、四方を取り囲む、(竜安寺の石庭と並ぶ)有名な枯山水庭園を鑑賞することができます。なお方丈は、現存する日本最古の「床の間」と「玄関」を持つ室町時代の建物です。
 (以上、http://www.digimake.co.jp/webtown/kita/daisen/daisen.html、及びhttp://www.b-model.net/daisen-in/daisenin.htm、による。)
 方丈とお庭の参観を終えて、大仙院内の観光バス所定の昼食の場所に移ろうとしたところ、売店の売り子の隣にお坊さんが座っていました。大仙院の名物住職の尾関宗園和尚(前職は慈光院(コラム#444)の住職。随分昔だが、みやこ蝶々さんと民放で人生相談をやっていたことがある。(http://www.b-model.net/daisen-in/index.htm))その人なのでたまげました。
和尚は著書等を買ってくれた人等に署名をしてくれるというので、私は前の人に倣ってずうずうしく、大仙院に入る時にバスガイドさんから手渡された大仙院のパンフレットに署名をしてもらいました。その時私の名前、「太田述正」を聞き、「政治家にぴったりの名前だ。選挙に出たら当選するよ」と言われて、(実際に三年前に参議院議員選挙に出て落選した私は)ずっこけてしまいました。

  ウ 東寺
 東寺は、平安京造営に際し、国家を鎮護する寺として、朱雀大路の南端の羅生門をはさんで創建された東西両寺の一つです。その後、西寺は廃れてしまいますが、東寺は空海(774??835年)に勅賜され、空海がここを真言宗の根本道場とし、教王護国寺と称したおかげで、東寺は隆盛を維持したまま現在に至っています。
 ちなみに、毎月21日の門前市である「弘法さん」は、北野天満宮(菅原道真を祀る。コラム#35、446)の毎月25日の「天神さん」とともに、京都の2大門前市です(http://allabout.co.jp/travel/travelkyoto/subject/msubsub_fes.htm)。
 東寺の、日本一の高さで有名な五重塔は江戸初期の再建ですが、国宝です。
 また、金堂も国宝ですが、これは豊臣秀頼(1593??1615年)によって再建されたものです。
 (以上、特に断っていない限りhttp://www.kintetsu.co.jp/senden/Database/TO-Htm/TO0052.html及びhttp://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/jap/hstj/minami/toji.htmlによる。)

  エ 泉涌寺
 泉涌寺は空海が結んだ庵を起源とするお寺です。
泉涌寺は、古くから皇室の帰依があつく、皇室の菩提所であったことから、「みてら」とも呼ばれています。境内の5157平米の御陵域には月輪陵及び後月輪陵(のちつきのわりょう)等、四条天皇(1231??1242年)から始まり、後水尾天皇以降孝明天皇(1831??1866年)に至る14代の天皇を含めた25もの陵墓やこれらの天皇の皇妃、親王の墓が鎮まっています。それほど広くない境内にこれだけ多くの墓があることは、戦国時代から江戸時代の皇室の衰徴を示すものです。
われわれは、特別参観ということで、御座所に入り、そのお庭、及び御座所に隣接した海会堂(注5)を拝観しました。
 (以上、http://www.digimake.co.jp/webtown/higashiyama/sennyuji/sennyuji.html及びhttp://www.mitera.org/以下、による。)

(注5)御座所は、京都御所内の皇后宮の御里御殿(おさとごてん)を移建したもの。また海会堂は、御所にあった御黒戸(おくろうど。仏間)を明治の廃仏毀釈の後に移したもので本尊、阿弥陀如来の両脇に三十数体の皇族方の御念持仏(守り本尊)を安置するお堂。

(続く)