太田述正コラム#8915(2017.2.14)
<米帝国主義の生誕(続)(その13)>(2017.5.31公開)
「・・・上院によるパリ条約の承認は、フィリピンでの蜂起を引き起こした。
叛乱者達は、米国は、スペイン帝国に取って代わるのではなく、同帝国を終わらせることを目指している、と思い込んでいたためだ。
筋金入りの帝国主義者であるアルバート・J・ビヴァリッジ(Albert J. Beveridge)<(注18)>は実情調査旅行に出かけ、米国の兵士達は、、「イギリス人型(Saxon type)」であって、「彼らの血管群中に人種的な徳」を持っているので、勝利は運命付けられている、と結論付けた。
(注18)1862~1927年。米国の歴史家・・最高裁長官ジョン・マーシャルの伝記でピューリッツァー賞受賞・・にして上院議員。現在のデポー(Depauw)大卒。
https://en.wikipedia.org/wiki/Albert_J._Beveridge
「水責めの一種である「水療法(water cure)」が<フィリピン派遣米軍の>お好みの拷問手法になった。
ロンドンに住んでいたことがあったトウェインは、<英>植民地相のジョゼフ・チャンバレン(Joseph Chamberlain)<(注19)(コラム#847、4981)>をマッキンリーと比較しつつ、「この詐欺師ども二人を公衆がリンチするよう神にお願いしたい」、と宣言するほどチェンバレンを軽蔑するようになっていた。
(注19)1836~1914年。「保守党のソールズベリー侯爵やアーサー・バルフォアの内閣で植民地<相>(在職: 1895年-1903年)を務めた。積極的な帝国主義政策を遂行し、大英帝国の強化・拡大に努めた。・・・ロカルノ条約でノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレン外相やナチス・ドイツへの宥和政策で知られるネヴィル・チェンバレン首相は息子である。・・・
裕福な家庭ながら非国教徒・・・のユニテリアン派・・・であるため、パブリックスクールやオックスフォード大学やケンブリッジ大学など国教会系の名門校への入学は断念し、・・・1850年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに入学した。この大学には2年間だけ在学」し、実業家を経てバーミンガム市長、そして中央政界に進出。植民地相の時に第二次ボーア戦争(1899~1902年)を主導した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3
蔵相も内相も望みのままだったのにあえて植民地相(Secretary of State for the Colonies)を選んだ彼は、「「私は英国人種(British race)が統治諸人種中最も偉大であると信じている…世界の地表の大諸空間を占拠しても、それを有効活用しない限り十分ではない。自分の地所を開発するのは地主の義務だ」、と自信をもって言明した。そういうわけで、チャンバレンは、アフリカの赤道地方、西インド諸島、その他の未開発の諸<英>所有地への投資を推進(advocate)したが、この政策は、新聞の間で、「ジョセフ・アフリカヌス(Africanus)」の綽名を生み出した。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Chamberlain
⇒チェンバレンと、同時代の(トウェインを除く)米国の識者達との間の最大の違いは、弱者であるところの、((引用を省いたが、)労働者達とともに、まるで戦前の日本人達が抱いていたような、)植民地原住民達への温かい眼差しです。
「イギリス人種」すら存在しているとは必ずしも言い難いのですから、「英国人種」などもちろん存在していないのであって、彼の言う「英国人種」とは、「英本国」、の言い換えでしかないことに注意すれば、そしてまた、ボーア戦争も、南アフリカの黒人達とのではなくオランダ系人達との戦争であったことを想起すれば、チェンバレンが人種主義者などではなかったことは明白でしょう。
トウェインには、このあたりの機微が分かっていないとみえて、チェンバレンを含め、「帝国主義者」達を一括りにしてしまっていますが、そこが、米国人たることからくる、トウェインの限界、ということでしょうね。
これでは、トウェインに英国の一部たるカナダに亡命することを期待することなど野暮というものでした。(太田)
ヘンリー・カボット・ロッジ<(注20)(コラム#3972、3976、4020、4486、4522、5776、6383、8267)>はロッジで、反帝国主義者達は、敗北主義者達であるだけでなく、米国の兵士達の殺害を奨励している、という神話を作り出した(pioneered)。
(注20)Henry Cabot Lodge(1850~1924年)。「<米>国の政治家、歴史家。・・・上院では<、>外交委員長(1919年 – 1924年)・・・<そして、>事実上の初代上院多数党院内総務<を務める。>・・・ハー<ヴァ>ード大<卒。>[同博士]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B8
彼は、北イタリア人はチュートン的だからよいが、南イタリア人移民すら排斥されるべきだとした。また、彼は、国際連盟への加入は米国の主権を制限するとして反対し、結局、米国は加入しなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Cabot_Lodge ([]内も)
⇒ロッジに至っては、ナチスのそれを先取りし、一層先鋭化させたような人種主義者だったわけです。(太田)
叛乱者達を従わせるために、米陸軍は、諸虐殺や諸村の全面的焼尽を含む、焦土諸手法に訴えた。
フィリピンで用いられた恥ずべき諸措置からベトナムとイラクでのそれらへの直接的軌跡を辿ることは困難ではない。
著者によれば、41か月に及んだ米比戦争で120,000人の米国の兵士達が戦ったが、「虐待の結果殺されたり死んだフィリピン人達の数は、三世紀半に及んだスペインによる統治の間のそれの三倍を超えた」のだった。・・・」(E)
(続く)
米帝国主義の生誕(続)(その13)
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