太田述正コラム#0453(2004.8.26)
<ワルシャワ蜂起(その1)>

 今年の8月1日はワルシャワ蜂起60周年にあたります(注1)。

 (注1)1939年9月にドイツは53個師団の大兵力でもってポーランドに侵攻し、10月初めまでにはポーランド軍の抵抗を粉砕し、ソ連との密約に基づき、ソ連と共にポーランドを分割する。そして1941年6月、ドイツは今度はソ連に侵攻する。また、ドイツはポーランドでユダヤ人狩りを行い、ユダヤ人を強制収容所に送り始める。
     1943年4月にはワルシャワのユダヤ人地区(ゲットー)でユダヤ人による蜂起が起きる。しかし、ドイツ軍に鎮圧され、36,000人のユダヤ人が殺されるか強制収容所送りになった。

 先の大戦末期の1944年8月、ドイツ占領下のワルシャワの郊外(ヴィスツラ河対岸)にソ連軍が迫ってきており、ソ連のラジオ放送がポーランド人に蜂起を呼びかけるという状況下において、それまでドイツに対するレジスタンス運動を行ってきていたポーランド市民40,000人が一斉蜂起し、ワルシャワの要所を占拠しました。
 ところがそのとたん、ソ連軍はぴたりと進撃を止めてしまい、ドイツ軍等(注2)がこの蜂起を鎮圧しするにまかせます。それは、英米寄りのレジスタンス勢力を壊滅させ、その後にポーランドを「解放」し、ソ連の息のかかった政権を樹立するためでした(注3)。

 (注2)ナチス親衛隊(SS)の将軍が指揮するSS及びロシア人・コサック・アゼルバイジャン人・ウクライナ人部隊、並びにこれを支援するドイツ正規軍。
 (注3)1945年1月17日、ワルシャワ蜂起から半年近くたってから、ソ連軍はようやく廃墟と化したワルシャワに入った。そして蜂起に加わった市民兵幹部は探し出され、殺害されるか投獄された。

 結局、10月までには蜂起は鎮圧されてしまいます(注4)。この間、15,000人の市民兵が殺され、ワルシャワの一般市民20万人から25万人が命を落としました(注5)。

 (注4)しかし、これは大変な善戦だった。もともとレジスタンス側は、独力では5日間程度しか持ちこたえられまいと考えていたのに、装備がはるかに優れている2倍近くの敵と戦って63日間も持ちこたえたのだから。
 (注5)当初、ドイツ側はとらえたポーランド市民を全員射殺していた。英国が復仇するぞとドイツに圧力をかけたおかげで、ようやく市民兵は正規の軍人として扱われるようになる。レジスタンス側降伏の後、ワルシャワ市民の生存者中16万5,000人は強制収容所や強制労働キャンプに送られ、35万人はワルシャワから強制退去させられた。そしてワルシャワ市街で残っていた部分は破壊され、結局ワルシャワ市街の8割は灰燼に帰した。

 一体どうして英米は手をこまねいていたのでしょうか(注6)。
 ドイツと戦っていたソ連への遠慮です。
 そもそも、米英華のヤルタ会談を中断して1943年11月末から12月初頭にかけて開催された米英ソのテヘラン会談(ソ連が対日参戦を約した。http://www.tabiken.com/history/doc/D/D065C100.HTM及びhttp://www.tabiken.com/history/doc/M/M194C100.HTM(8月25日アクセス))において、戦後、ポーランドを含む東欧をソ連の勢力圏とする密約が結ばれていました。
こんなことは、ポーランド人は知る由もなかったのです。

 (注6)もっとも、英国はレジスタンス側を若干なりとも支援した。
     チャーチルは、英国に避難してきていたボーランド軍部隊から出された、ワルシャワに空挺降下してレジスタンス側に加わりたいとの要請は受け入れなかったが、(既に枢軸側から奪還していた)イタリア南部から英空軍(英国・ポーランド・南アフリカ人乗り組み)の輸送機等を飛ばし、空中からレジスタンス側に武器弾薬をパラシュート投下した。このミッションは、ドイツ側の対空砲火に晒されたことはもとより、遠距離飛行であった上に、ソ連軍占領地区上空に迷い込んだりするとソ連軍からも攻撃されたため、1トンの武器弾薬を運ぶごとに1機の航空機が失われるという過酷なものだった。

 8月1日にはワルシャワ蜂起の記念式典が催され、ドイツのシュレーダー首相が、ドイツの首相として初めてこの式典に参列し、記念碑の前で謝罪しました(注7)。また、戦争末期及び戦後にポーランド等から追放された旧ドイツ人住民達によるポーランド政府等への補償要求について、ドイツ政府は反対である、と言明しました。
 
 (注7)1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起については、1970年に西独(当時)のブラント首相(当時)が、ワルシャワ訪問時にゲットー跡地で跪き、謝罪している。

 式典に招待されなかったロシアのプーチン大統領(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3526594.stm。8月2日アクセス)は、「彼らの功績は不滅だ。皆さんが払った犠牲は我々の歴史的記憶の中に永久にとどめられるだろう」というポーランド政府宛の声明を発表しました。
 式典には、シュレーダー首相のほか、英国のプレスコット副首相や米国のパウエル国務長官も参列しました。
 それでもなお、ポーランドのベルカ(Marek Belka)首相は、7月31日、英国を始めとする連合国側諸国に対し、ワルシャワ蜂起にあたって何もしなかったことについて遺憾の意を表すべきだ、と主張しました。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2004/07/25/books/review/25DESTEL.html(7月27日アクセス)、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3938873.stm(7月31日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1273747,00.html(8月1日)、(http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,2763,1274063,00.htmlhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-warsaw1aug01,1,4472989,print.story?coll=la-headlines-world(いずれも8月2日アクセス)及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3527848.stm(8月3日アクセス)による。)

(続く)