太田述正コラム#8937(2017.2.25)
<映画評論49:ザ・コンサルタント(その5)>(2017.6.11公開)
この映画は、非典型的神経者(non-neurotypical)の値打ちと価値についての衷心からの宣言で終わっている。
共感的なセラピストが、<自分達の子である主人公のことを>心配しているカップルにこう説明する。
あなたの息子さんは劣っているのではありません。異なっている<だけな>のです」、と。
しかし、自閉症の人間がヒーローになるためには、他のあらゆる超能力を持った戦闘諸装置と全く同様に超能力を持った戦闘装置たらざるべからず、というのだから、この映画は、果たして、自閉症の人々に本当に同情的である、と言えるのだろうか。
子供が自閉症であるところの、作家であるジョフ・トッド(Geoff Todd)は、この映画の予告編を観て、『レインマン』以来だが、ハリウッド映画の、驚くべき諸能力を持った自閉症の人々についての強迫観念について、こう記している。
トッドは、「私の子供は約6年前に自閉症と診断されたが、以来、少なくとも一週間に一回は、彼がどんな特別な技量を持っているのか、と聞かれる」、と言う。
「我々は、今2016年に生きているが、再び別の映画が、サヴァン的性質の優れた特定の特権(perk)を持つとの属性を<登場人物に>付与しようと試みている」、と。
この映画は、陳腐なアクション場面が中心の、陳腐なハリウッド・アクション映画を制作するために、障害の陳腐かつ誤解を与える描写を用い、その上で、<障害者は劣っているのではなく、単に>異なっているのだ、ということを抱懐することの重要性についてほざいている、と。
かかる抗議の諸宣言(protestations)にもかかわらず、この映画を同種の映画群から区別しているところのものは、その、イライラさせられる、手掛かりなき偽善であり、その冴えない題名、だけだ、とも。」(十三)
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[日本のサヴァン症候群者]
日本人でサヴァン症候群者として名前が挙がっているのは以下のような人々だ。
大江光、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
山下清、松村邦弘、そして、ジミー大西。
https://matome.naver.jp/odai/2139391709218820701
しかし、大江と山下に重度の精神障害があるのは確かだが、大江の音楽作品にせよ、山下の絵画作品にせよ、その評価については微妙に意見が分かれるかもしれないが、「通常」のプロの作品以上でも以下でもなく、超人的なものは何も感じられない。
他方、松村と大西は、コミュニケーション能力を含む人間関係構築・維持能力が問われる活動中最たるものであるTVタレント活動ができている(できていた)のだから、重度の精神障害があるとは考えにくく、彼らがいかなる絵画等の作品を生み出しているのかは詳らかにしないが、サヴァン症候群者の定義にそもそも合致しないのではないか。
私は、日本にはサヴァン症候群者はいないのではないか、という気がしている。
仮に、日本以外には、サヴァン症候群者がいるのだとすれば、精神障害の発現形態が文明によって違う、ということかもしれない。
もっとも、仮にそうだとすると、欧米、就中米国を中心に発展してきた精神医学には普遍性が必ずしもない、ということになりかねないが・・。
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6 肝心なこと・・終わりに代えて
私自身は、「啓蒙された殺人者」であることと並んで主人公の属性として重要であると考えているところの、彼が慈善事業家であることに、評者達が誰一人触れていないことはちょっとした驚きでした。
この映画の日本語ウィキペディア(A)には、主人公が自閉症/サヴァン症であることすら出て来ないのですから、出て来なくて当然なのですが、さすがに、この映画の長文の英語ウィキペディアには、ちょっぴりではあるけれど、下掲のようにそのことが言及されています。↓
「主人公は、<自分が子供のころに自閉症対策で世話になった>ハーバー(Harbor)神経科学研究所に、相当な額の税還付を受けさせると共に、諸寄付を行ってきた。・・・
<主人公に、合法、非合法の会計業務を斡旋してきたのは、>主人公によって寄付されたコンピューターが発している声であり、このコンピューターは、(まだ唖である)成人になったジャスティーン(Justine)<という女性>が、主人公の仕事のパートナーとしての諸義務を果たすべく、主人公と交信するために使っているものだ。」(B)
つまり、私見ではこういうことです。
米国というのは、人々ないし(その政府を含む)諸組織が、合法的かつ(バレない範囲で)非合法的に利己的なカネ儲けに専念すると共に、そのカネを惜しげもなく利他的な諸慈善事業に投じること、そして、かかる(両輪が相互依存的関係にあるところの)両輪的システムを自力救済的な暴力によって守ることを躊躇しない社会であるところ、この映画は、このような米国社会の全体像のカリカチュアなのです。
このような米国社会像は、この映画の制作関係者達にとっても評論した米英の映画評論家達にとっても、無意識的に当然視されているものであることから、彼らの意識には上らず、だからこそ、彼らが書いた諸評論中に私の上記のような指摘をした者がいないのでしょう。
しかし、この映画は、基本的なセッティングにおいて米国の現実の姿に忠実であるからこそ、バカげた内容だと大方の評論家達は毒づきつつも、結構、彼らは楽しんで観てしまった、ということなのではないでしょうか。
このように考えてくると、主人公が精神障害者であることも、米国人達が、心の片隅では、上記のような米国社会は狂っているのではないか、という不安、懸念に苛まれていることの反映なのかもしれませんね。
こうなると、この映画用にオリジナルの脚本を書きおろした、ビル・ドゥビューク(Bill Dubuque)とはどんな男か、関心を抱かざるを得ませんが、彼のウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Dubuque
を見ても、両親のことも学歴も、いや、年齢すら出て来ず、ネットで更に調べてみたけれど、かろうじて、12年間ヘッドハンティング業に従事した後、映画脚本業に転じた
http://variety.com/2012/film/news/dubuque-corporate-headhunter-followed-calling-1118062630/
、ということくらいしか分からなかったことは残念です。
(完)
映画評論49:ザ・コンサルタント(その5)
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