太田述正コラム#8975(2017.3.16)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その4)>(2017.6.30公開)
「日本には古代から「歌垣」<(コラム#5019、6322)>と呼ばれる性的な風習があった。歌垣とは若い男女が近くの山や浜辺に集まり、歌を交換しながら次第に高揚して関係を結ぶというもので、見知った同士のこともあれば、見知らぬ男女がその場で意気投合する婆も同じくらいあった。いわば日本における”乱交パーティー”の始まりというわけである。
歌垣は今から4000年前、中国の黄河の流域で発生し、東南アジアを経て日本に渡来したと推定されている。歌垣とは日本の西国での呼び方で、東国では「嬥歌(かがい)」と呼ばれた。・・・
この日ばかりは、結婚した男女も公然と浮気ができるのである。・・・
<ところが、>明治の近代化以降、性的なものは下品という烙印を押されて<行われなくな>ったのである。」(63、66、69)
⇒引用はしませんが、セックスがらみの支那起源のものとしては、この歌垣のほか、女性用性玩具がある、とのことです。(84~91)(太田)
「夜這いの同義語として、「妻問」という言葉<があるが、>・・・いくつかの条件の違いも見られる。先ず、夜這いにとって絶対的な条件とされた「夜」という時間が取り払われていること、夜這いも妻問いも男性が女性のもとへ通うのが基本形だが、妻問では女性が積極的に男性にアプローチする例がみられる。そして相手に品物をプレゼントする例も多いなどである。」(74~75)
⇒確かに、(「妻問婚」には「夫問婚」という字が充てられることはありえないのに対し、)「妻問」には「夫問」という字が充てられることがありますね。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/148162/meaning/m0u/ (太田)
「624(推古天皇32)年に実施された・・・調査の記録が『日本書紀』に載っているが、それによるとお寺の数が46か所、<当時は公務員と見てよい>僧侶が816人で、尼僧が569人とある。」(80)
⇒本筋から離れますが、釈迦に、従って仏教に女性差別的な部分がある
http://buddha-tree.com/2013/07/17/344/
のはどうしてか、そして、それにもかかわらず、どうして、この数字が示唆しているように、日本では仏教が男女平等に近い形でスタートしたのか、についてですが、私は、前者は、釈迦自身が、戦争社会たる農業社会における女性差別意識を完全に払拭できていなかったからであり、後者は、日本が、縄文時代は女性優位社会であったところ、弥生時代、そして拡大弥生時代、においても、依然、男女平等的な社会であったからだ、と考えています。(太田)
「奈良では785(延暦4)年以来、僧尼が濫淫をきわめ、仏教を穢している」<と>『日本紀略』<に>記述<されているが、>・・・785年は長岡京への遷都が行われた次の年である。実際には遷都は延び延びになっていたものの、奈良に住む坊さんや尼さんたちは「自分たちは天皇に見捨てられた」と感じたとたん、やけくそになったらしく「濫淫をきわめ」るという状況に陥ったのである。・・・
当時、東大寺を始めとする主だったお寺では庶民の健康のために寺に備えた湯屋で入浴させていた。この催しは混浴で、寺僧や尼僧は助手を務めていたから、彼らにとって混浴は見慣れた風景だったが、自分たちだけで混浴をする度に抑圧していた性の欲望が頭をもたげてきたようであった。・・・治安の監視役として奈良に送られた・・・大和守藤原園人<(注6)>が・・・「男女の混浴を戒む」という規則を発したのは・・・赴任後、まもなくのことであった。これが日本で初の混浴禁止令である。」(83)
(注6)756~819年。「藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。・・・一時的に少納言・右少弁と太政官の官房機関の官職を務めたほかは、備中守・安芸守・大宰少弐・豊後守・大和守と桓武朝の前期から中期にかけて長く地方官を務めた。園人は百姓の立場から仁政をしく良吏であったらしく、国守として赴任した豊後国では、園人の善政と遺徳を頌える祠が建てられ、大分県日出町大神の御霊社に現存している。また、大和守の官職にあった延暦18年(799年)には、郡司について任務が大変な割に外考(外位に対する考課。内位に比べて昇進が遅い)扱いで、子孫に対して恩恵を残すことができず、十分な収益も得られないことから、郡司に任じても辞退者が続出して郡の行政に支障を来していたため、内考扱いとするよう言上し、朝廷より畿内5ヶ国について認められている。・・・弘仁3年(812年)には・・・右大臣に任官し、太政官の首班に立<つと、>・・・律令制維持を図<るため、>・・・参議時代から提唱していた百姓撫民および権門抑制<政策を推進したが、>・・・園人の次に太政官首班となった藤原冬嗣は律令支配路線を大きく転換し、権門による開発の規制緩和を実施してい<くことになる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9C%92%E4%BA%BA
⇒日本では珍しいことではありませんが、こんなところにも、撫民精神に基づき、善政を施した、政治家兼行政官がいたわけです。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その4)
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