太田述正コラム#8985(2017.3.21)
<再び英国のインド亜大陸統治について(その6)>(2017.7.5公開)
(9)宗派間対立の促進とその帰結
「ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の諸コミュニティは「植民地より前の諸時代において、通常一緒になって働いていた」という「話だらけだ」、とのタルールの主張は、いささかいい加減で漠然としているが、1920年代に<インド担当>国務大臣(secretary of state)であったオリヴィエ(Olivier)<(注11)>卿は、英官界において、ヒンドゥー・ナショナリズムを相殺するためにイスラム教徒コミュニティを贔屓するという支配的偏向(predominant bias)<があったこと>を認めている。
(注11)Sydney Olivier, 1st Baron Olivier。1859~1943年。オックスフォード大卒(哲学・神学専攻)で国家公務員試験に首席で合格し、植民地省入省し、フェビアン協会会員、労働党員にもなり、ジャマイカ総督等を経て、労働党のマクドナルド内閣で叙爵され、インド担当国務大臣(1924年1月~11月)に就任、インド亜大陸独立に反対の立場を採る。俳優のローレンス・オリヴィエは甥。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sydney_Olivier,_1st_Baron_Olivier
英国人達は、ラクナウ(Lucknow)におけるシーア派とスンニ派の対立(divide)を煽り(sponsored)、一般的に言って、宗教的諸差異<に過ぎなかったもの>を、公的、政治的、かつ法的、な諸争点へと変容させたのだ。」(B)
(注12)「ラクナウ・・・は、インドウッタル・プラデーシュ州の州都であ<り、>18世紀、アワド藩王国の首都として栄えた。ニューデリーの南東約500kmにある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%82%A6
歴代アワド藩王達は、シーア派だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%A9
「フサインはヒジュラ暦61年のアーシューラー(ムハッラム月10日、ユリウス暦では680年10月10日)、カルバラーの戦いで惨敗を喫し戦死した。シーア派はアーシューラーに、その死を悲しむ祭式を行う」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0)
ところ、インド亜大陸では、68日間にわたって祭式が行われるが、ラクナウでは、1908年、1930年代、1968年、1969年、1974年、及び、1977年に、シーア派とスンニ派の暴動、衝突が起き、1977年に祭式の挙行が禁止された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Azadari_in_Lucknow
「<そして、英国人達によって煽られたところの、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立の帰結たる>インドの分割<についてだが、>・・・1947年にシリル・ラドクリフ(Cyril Radcliffe)<(注13)>が任務を帯び、昼飯一回を挟んだだけで、インドと新しく創造されたパキスタンとの間の境界線を書き上げた。
(注13)Cyril Radcliffe, 1st Viscount Radcliffe。1899~1977年。オックスフォード大卒、法廷弁護士、情報省長官(次官級。第二次世界大戦中)、叙爵され法貴族(最高裁裁判官の役割を持つ上院議員)、そして、ウォリック大学初代学長、という生涯を送った。
彼の分割案が公表されたのは、パキスタン独立当日にしてインド独立の前日だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Cyril_Radcliffe,_1st_Viscount_Radcliffe
シリル・ラドクリフがこの亜大陸を宗教諸線に沿って分割した後、状況が急速に悪化して暴力的になったことから、パキスタンにいたヒンドゥー教徒達とインドにいたイスラム教徒達が、住んでいた地から逃れることを強いられて根無し草になった。
いくつかの推計は、100万人もの人々が、宗教間諸殺人によってその生命を奪われたこと示唆している。」(C)
「<そして、>1300万人が移住させられ、何十億ルピーもの財産が破壊され、荒されたこの地の全域で諸コミュニティ間の憎しみの炎が熱く燃え盛ったのだ。」(A)
(10)批判
「この本は、仕上げの努力がなされていない。
急いで書かれたようだ。
タルールは、この本を書くことにしたのは、オックスフォード大で彼が行った挑発的講義に対するネット上の反応を受けた、「大慌ての決定」であることを認めており、まさにその結果だと言えよう。」(B)
「結局のところ、マハトマ・ガンディーと彼のサチャグラハ(satyagraha)(非暴力的抵抗運動)の興隆によって、「英国の自由主義について、その正しさが裏付けられたのではなく、否認されるべきことが証明された」のだ。」(B)
⇒コラム#176及び#4665以下で展開したガンディー論(前者の頃は「ガンジー」と表記)を振り返っていただけば、ガンディーなど、でき悪の無能なイギリスかぶれに過ぎないというのに、タルールが依然としてガンディーを崇拝しているらしいのには驚きました。
インド人達・・この場合はインド亜大陸人達でない方がよさそうです・・が、チャンドラ・ボース「と」ガンディーではなく、ボース「のみ」を建国の父として顕彰するくらいにならない限り(注14)、インド・・この場合もインド亜大陸ではまずそうです・・の将来はない、と私は考えています。
(注14)「インドにおけるチャンドラ・ボースの位置づけはガンディーと同等で、ネルーより上位であり、国会での写真の飾り方はチャンドラ・ボースが最上部になっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8D
この箇所の典拠は「名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社」となっており(上掲)、名越の理解で正しいかどうか、念には念を入れて確認したいのだが・・。
(完)
再び英国のインド亜大陸統治について(その6)
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