太田述正コラム#0459(2004.9.1)
<世界を決定した1759年(その2)>

3 1759年

 では、この7年戦争における、そのまた決定的瞬間は何だったのでしょうか。
 英国の戦史学者のマクリン(Frank McLynn)は、著書1759: The Year Britain Became Master of the World, Jonathan Capeにおいて、それは英国がフランスからカナダのケベック地方を奪うこととなった1759年9月13日のケベック市近郊のアブラハム平野の戦い(Battle of the Plains of Abraham)だ、と指摘しています。
(以下、特に断っていない限りhttp://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1292251,00.htmlhttp://hnn.us/roundup/entries/5367.htmlhttp://enjoyment.independent.co.uk/books/reviews/story.jsp?story=520940(いずれも8月28日アクセス)による。ただし、私見を織り交ぜている。)

 これまで欧州を中心に話を進めてきましたが、7年戦争の発端は北米大陸において、当時フランス領であったアパラチャ山脈以西に植民したい英国とこれを妨げたいフランスが対立し、1754年に、英国とインディアンのイロコイ同盟(Iroquois Confederacy)を味方に付けたフランスの間で戦闘が起こったことから始まります。(1756年というのは、英国がフランスに正式に宣戦布告した年です。)
 後に米国の初代大統領となるジョージ・ワシントン(George Washington。1732??1799年)は、英軍の一指揮官として活躍します。
 最初のうちは北米での戦闘はフランス優位に推移しますが、次第に英国優位に転じ、1758年に英国はイロコイ同盟をフランスから引き離すことに成功します(注2)。

 (注2)この間、1857年にはインドでの英仏両勢力の天下分け目の戦い、プラッシー(Plassey)の戦いで英軍がフランス軍を打ち破っている(http://members.cox.net/johnahamill/sevenyears.html前掲)。

 そして1759年のアブラハム平野の戦いを迎えることになります。
 興味深いことに、このアブラハム平野の戦いにおける勝利の意義に当時の英国の指導者達は気付いてはいませんでした。というのも、傑出した政治家であった当時の英国首相のウィリアム・ピット(William Pitt。1708??1778年)(注3)ですら、北米大陸のフランス領就中カナダよりも西インド諸島のフランス領就中グアダループ(Guadeloupe)島の方がはるかに経済的に重要だと考えていたからです。
英国は、1759年に占領したカナダの経営より、同じ1759年に占領したグアダループ島の経営の方に血道をあげ、一年も経たないうちにグアダループに5,000名もの新たな奴隷を送り込み、42万5,000ポンド相当の砂糖を同島から北米及び英国に輸出する等して、大もうけをしたものです(注4)。

 (注3)首相在任1757??61、1766??68年。7年戦争中、ピット自身が個人的に選任したフォーブス(Forbes)指揮する英軍が陥落させたフランス軍の重要な砦(Fort Duquesne)の地が彼の名前をとってピッツバーグ(Pittburgh)へと改名された。晩年彼は、英国議会に代表を送っていない北米植民地への課税に反対し、13州の独立回避に全力を尽くすが、頑迷な英国王ジョージ3世を翻意させることができなかった。ピッツバーグ市はピットへの敬意から、家紋を市の紋章としている。(http://www.britannia.com/gov/primes/prime5.html及びhttp://www.clpgh.org/exhibit/neighborhoods/point/point_n104.html(どちらも8月31日アクセス))
 (注4)フランスの考えも同じであり、7年戦争の講話条約である1763年のパリ条約おいて、フランスはカナダ等を放棄することによって英国からグアダループを返還された。現在グアダループ島はマルティニク島(後述)とともにフランスの直轄領。(http://www.lonelyplanet.com/destinations/caribbean/guadeloupe/history.htm。8月31日アクセス)

 実はこの1759年にフランスは、インド、西インド諸島とカナダの喪失を一挙に挽回すべく、ボニー・プリンス・チャーリーを先頭に押し立て、フランス軍の総力を挙げて英本国に侵攻する計画を立てたのですが、1745年の失敗の痛手からついに立ち直れなかったボニーの優柔不断により時間を無駄にしているうちに英軍が二回の海戦でフランスの軍艦計14隻を撃沈または拿捕してしまい、この計画は潰えてしまいます。
 こうして、スチュアート朝の復辟並びにフランスによる7年戦争挽回の可能性は、もろともに永久に失われてしまったのでした。

 1762年には英軍はだめ押しするように、西インド諸島のフランス領で残っていたマルティニク(Martinique)島、フランスの同盟国スペイン領のキューバのハバナ、そして同じくスペイン領のフィリピンのマニラを占領し、ハバナの戦いだけでスペインは海軍力の20%を失います。
 欧州戦線は膠着状態に陥っていましたが、こちらの戦線でも1762年にドイツ、就中プロイセン嫌いの皇帝エカテリーナ2世(Elizabeth??, czarina of Russia。1709??1762年)が亡くなり、その甥でプロイセンのフリードリッヒ2世を尊敬するピョートル3世(Peter??。1728??1752年)がロシア皇帝となると、ロシアはプロイセン側に寝返り、英国側が決定的に優位に立ち、決着がつくのです。
(以上、http://members.cox.net/johnahamill/sevenyears.html前掲も参照した。)

(完)