太田述正コラム#8995(2017.3.26)
<インディアン物語(その2)>(2017.7.10公開)
 (2)プロローグ
 「1989年の夏・・・NYタイムスは、ウィリアム・F・コーディ(William F Cody)<(注7)>についての短い記事を載せた。
 (注7)William Frederick “Buffalo Bill” Cody。1846~1917年。父親は奴隷廃止論者で奴隷廃止を訴える演説中に刺傷を受けたことがある。学歴はない。
 劇団、Buffalo Bill’s Wild Westを1883年に創設し、カウボーイもの、米フロンティアもの、インディアン諸戦争もの、を引っ提げ、米・英・欧を巡業した。その際、インディアン達を団員として抱え、出し物の一環として、彼らにテントを張らしてそこで寝起きさせると共に、彼らを劇中に登場させた。
 彼は、インディアン達をかつての敵で今は友人たる米国人達と描写し、インディアン達との衝突は、米政府が約束や条約を守らなかったから起きた、と述べたことがある。
 彼は、また、女性平等論者であり、環境保全論者でもあった。
 そして、フリーメースンであり、それまでの宗派は明らかではないが、死の前日にカトリックの洗礼を受けた。
 彼の葬儀は、当時のワイオミング州知事が主宰し、弔辞が、英国王ジョージ5世、独皇帝ヴィルヘルム2世、米大統領ウッドロー・ウィルソンから寄せられている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Buffalo_Bill
⇒当時としては「比較的」まともな有名人が、少なくとも一人、米国にいた、というわけです。
 なお、上掲ウィキペディアは何の注釈も付けていませんが、コーディが亡くなった1917年1月は、第一次世界大戦中(1914年7月~1918年11月)ではあったところ、ヴィルヘルム2世が米国人のコーディに弔辞を送った(送ることができた)のは、かろうじて、米国のドイツとの国交断絶(1917年2月3日)の前で、当然のことながら参戦(1917年4月6日)の前。
https://en.wikipedia.org/wiki/World_War_I#Entry_of_the_United_States
だったからではないでしょうか。(太田)
 その見出しは、「『バッファロー・ビル(Buffalo Bill)』の表彰徽章(medal)が回復された」だった。
 コーディが19世紀の最も良く知られた芸人(showman)になるずっと前から、彼は、米南北戦争の後の年々において大平原を苛んだ「インディアン諸戦争」中に斥候として奉仕(serve)してきた。
 1872年に、彼の奉仕に対し、米陸軍の最高表彰(award)である名誉徽章が授与された。
 新聞によれば、それは、「スー族(Sioux)<(コラム#3668、3764、4046、4072、4381、5875、8877)>に対する突撃の先頭に立つという武勇に対して」授けられた。
 「彼は、<インディアン>2人を殺害し、何頭かの諸馬を取り戻し、後退するインディアン達を追いかけた」、と。
 ところが、1917年にこの表彰は撤回された。
 21世紀においては、欧州人達が、アメリカと呼ばれた場所を夢想だにしなかった、ずっと以前から住んでいた土地を守っていた人々を殺すことに対する諸姿勢が、その後何十年の間に変わったのではないか、と想像しがちだ。
 しかし、そうではなかったのだ。
 問題は、コーディが、斥候として、非軍人であったとみなされ、この徽章を授与される資格が法令上(technically)なかったことだった。
 彼の家族は、爾後、ずっとその返還を求めてきたが、それがうまく行き、1989年にワイオミング州選出上院議員のマルコム・ウォロップ(Malcolm Wallop)が、ついに、「記録が正される」決定が下された、と述べた。
 彼は、米陸軍が、コーディが、「我々の国の最高の名誉に明確に値する」ことを認めたことを喜んだ。
 この言明は、<インディアンの不幸な歴史に関する>注釈抜きで行われた。
 恐らく、事情は過去30年の間に変わった、いや、変わらなかった、のかも。」(C)
⇒この書評子(著者?)、いささかコーディに厳し過ぎるような・・。(太田)
(続く)