太田述正コラム#8997(2017.3.27)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その10)>(2017.7.11公開)
「藤原高子<(注27)>(こうし)(842年~910年)は五摂家の始祖である藤原長良<(注28)>(ながら)の娘だが、彼女の人生は歴史に残る2つの浮気話によって飾られている。
(注27)842~910年。「清和天皇の女御、のち皇太后。・・・藤原基経の同母妹。・・・子は陽成天皇<等>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E5%AD%90
(注28)802~856年。「藤原冬嗣<(前出)>の長男として生まれる。・・・昇進は弟の良房や良相に遅れをとったが、両弟に比べ子女に恵まれ子孫は大いに繁栄した。特に三男の基経は良房の養子となり、その子孫からは五摂家を初めとして多数の堂上諸家を輩出した。・・・高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%89%AF
「摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%AE%B6
最初のエピソードは在原業平<(注29)>との恋で、『伊勢物語』<(注30)の三段から六段に登場する。・・・
(注29)825~880年。「父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。・・・官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。・・・
早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3
(注30)「書名の文献上の初見は『源氏物語』(絵合の巻)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E
このストーリーが史実かどうかはともかく、・・・同等の話が『大和物語』<(注31)>にも描かれているから、2人の恋そのものは事実ではないかと推測されている・・・。
(注31)「当時の貴族社会の和歌を中心とした歌物語で、平安時代前期『伊勢物語』の成立後、天暦5年(951年)頃までに執筆されたと推定されている。登場する人物たちの名称は実名、官名、女房名であり、具体的にある固定の人物を指していることが多い。
・・・『伊勢物語』とは異なり統一的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇・貴族・僧ら実在の人物による歌語りが連なったいわばオムニバスの構成となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%89%A9%E8%AA%9E
高子が清和天皇の女御になったのは866(貞観8)年、彼女が25歳の時であるから、業平との仲はそれ以前からというわけである。
ちなみに清和天皇は17歳であった。
この頃、高貴な出の娘は天皇の后になるにしろ、貴族と結婚するにしろ、13、14歳で嫁ぐのが普通であったから、25歳という年齢はうば桜といってよかった。・・・
一方、後半の不倫は史実に基づく実話である。
869(貞観11)年、清和天皇と高子の間に男子が生まれた。
のちの陽成天皇である。
清和天皇は876(貞観18)年、8歳のわが子に譲位し、881(元慶5)年、31歳の若さで死亡した。
高子は882(元慶6)年、皇太后の尊称を受け、889(寛平元)年には清和天皇の霊を弔うために東光寺を建立した。
ところがまもなく、座主(住職)である善祐とのスキャンダル(密通)が発覚、896(寛平8)年、皇太后の称号を剥奪され、善祐は伊豆に流された。<(注32)>
(注32)但し、「没後の天慶6年(943年)に復位されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E5%AD%90
高子が55歳、善祐は10歳くらい年下だったという。
25歳がうば桜なら55歳は老女、平安時代の華麗な王朝文化は、このような性への執着の文化でもあったわけである。・・・
江戸時代随一の学者に挙げられる新井白石は『読史余論』の中で、当時の世相を、「いひつべし、父父たらず、子子たらず、兄兄たらず弟弟たらず、夫夫たらず、婦婦たらず、君君たらず臣臣たらず」と罵倒している。
人間社会の態をなしていないというわけである。」(136~138、141)
⇒新井白石は、一応武士ですし、次々に大名家、最後は将軍家に仕えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3
わけで、いくら社会が第二次縄文モードであったとはいえ、弥生的倫理観に立って当然ですが、それに下川が同調してしまっているのには、鼻白みました。
私は、むしろ、第一次縄文モード下であっただけではなく、縄文文化に染まっていた当時の皇族・貴族達・・例えば、譲位した清和上皇が8歳の陽成天皇の摂政にその母藤原高子の兄である外戚の藤原基経を就け、政権を委ねる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
という太平楽ぶりであったことがその象徴です・・の間で、天皇の寡婦が禁欲生活を送るべきものとされていたらしいことに驚きました。
なお、下川は、55歳は老女とおっしゃるが、称徳天皇(718~770年)と道鏡の「交際」期間は、天皇が上皇時代の43歳から、重祚し、そして崩御した52歳の頃であり、年齢的には大差ありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その10)
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