太田述正コラム#9005(2017.3.31)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その12)>(2017.7.15公開)
「義経の女性といえば、何といっても静御前のことが欠かせない。
静御前は白拍子<(注37)>という新しい時代の遊女であり、・・・平安時代後期の鳥羽天皇(在位1107年~1123年)の時代に登場した・・・。・・・
(注37)「古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという。
このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった。
白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす(時代が下ると色つきの衣装を着ることも多かった)という男装で歌や舞を披露した。伴奏には鼓、時には笛などを用いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%8B%8D%E5%AD%90
⇒もともと、縄文文化は中性的であり、弥生人も、日本武尊や神功皇后の「伝説」の中に、かかる縄文文化へのオマージュを盛り込んだ、というのが私の仮説です。
平安時代は、私の言う第一次縄文モードの時代であるところ、縄文文化への回帰の一環として、女性の中から、男装の白拍子が生まれた、と見たらどうでしょうか。(太田)
稚児<(注38)>が女装の美少年として、比叡山の僧侶や山伏たちの熱狂的な憧憬の対象になったように、白拍子は女性が稚児の装いを取り入れることによって、男装の麗人として新興の武士たちの情感をそそったのである。
(注38)「平安時代頃から、真言宗、天台宗等の大規模寺院において、剃髪しない少年修行僧(12~18歳くらい)が現れはじめ、これも稚児と呼ばれるようになった。皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」、頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う「中稚児」、芸道などの才能が見込まれて雇われたり腐敗僧侶に売られてきた「下稚児」がいた。禅宗では喝食と呼ばれた。
髪形は垂髪、または、稚児髷で、平安貴族女性と同様の化粧をし(お歯黒も付ける場合もあった)、極彩色の水干を着た。又、女装する場合もあり、その場合、少女と見分けがつきにくかった。
真言宗、天台宗等の大規模寺院は修行の場であるため山間部にあり、また、女人禁制であるため、このような稚児はいわば「男性社会における女性的な存在」となり、しばしば男色の対象とされた(ただし上稚児は対象外)。中世以降の禅林(禅宗寺院)においても、稚児・喝食は主に男色、衆道、少年愛の対象であった。
特に、天台宗においては「稚児灌頂」という儀式が行われ、この時に「○○丸」と命名された。これを受けた稚児は観音菩薩と同格とされ、神聖視された。・・・
これらの稚児は成人に達すると還俗する場合が多いが出家して住職となった者もいたらしい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9A%E5%85%90
⇒この時代的には先行していた稚児の、いわば対として、白拍子が生まれた、と見るわけです。(太田)
白拍子にはもう一つ特徴があった。それは全国を旅する遊女だという点である。
遊行女婦と呼ばれた万葉集の時代から、和歌作りの才能や美貌を武器にキャリアアップをはかった平安時代中期の女性まで、遊女はその土地に根付いた存在であった。
遊行といっても勝手に歩き回るという意味ではなく、「遊びごとを行う女性」を意味していた。
彼女たちは時代の先端を行く自立した集団であり、グループごとに「長者」と呼ばれるリーダー格の女性がいて遊女たちを束ねていた。
しかしこの時代の終わりになると、女性の和歌作りは衰退し、美貌の女性も「美女」という名称の召使いの階層の一つとされた。
その中から主人の意にかなった女性が側室として引き立てられたのである。・・・
義経の母親の常盤御前<(注39)>も木曽義仲の愛妾として有名な巴御前<(注40)>も「美女」という召使いから出た例だ・・・。
(注39)1138~?年。「近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。・・・源義朝の側室 。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E5%BE%A1%E5%89%8D
「雑仕(ぞうし/雑仕女 ぞうしめ)とは内裏や三位以上の貴族の家に仕える女性の召使いのこと指す。通常皇族に直接お目見えすることの許されない身分である。身分の高いほうから並べると女官―女孺―雑仕の順となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E4%BB%95
(注40)武家の娘。源義仲の妾たる女武者。「当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%BE%A1%E5%89%8D
⇒常盤御前と巴御前を一括りにするのはおかしいですし、いずれにせよ、「美女」なるものが存在したのかどうか、確認できませんでした。
二重の脱線ですが、戦国時代末に(巴御前を生んだ)信濃に隣接する遠江に井伊直虎(~1582年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%99%8E
が出現した・・史実であることを前提・・のはそう驚くべきことではなさそうですね。(太田)
大ざっぱな言い方だが、平安時代の特徴であった、「女性が活躍する社会」は、武家社会の到来とともにしだいに衰退しつつあったのである。
⇒平安時代の末期になると、私の言う、第一次弥生モードに移行する兆候が見られ始めた、ということです。(太田)
その一方で全国を旅しながら遊女稼業を行う女性が登場した。
そういう女性の代表的な存在が白拍子であった。
彼女たちは生まれ故郷や育った土地などに「座」(職業組合のようなもの)を結成し、そこを拠点として遍歴の旅に出た。
出かける時は姉妹や下女などとグループを組んでいることが多く、母親が座長を務めた。
静御前の母親も磯禅師<(注41)>という白拍子で、巡業の座長も務めた。
(注41)「鳥羽天皇の世に、藤原通憲(信西)がすぐれた曲を選んで、磯禅師に白い水干に鞘巻をさし、烏帽子の男装で舞わせたのが白拍子の始まりと『徒然草』にある。静御前に白拍子を伝えたという(ただし、『徒然草』は磯禅師や静御前が生きた時代の150年ほど後に書かれたものなので信憑性はない)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E7%A6%85%E5%B8%AB
淡路島の出身とも讃岐・・・の出ともいわれる。
白拍子は廻国巡業の身となることによって、「美人」という下女の階層に組み入れられることもなく、「自立した女」としての遊女の地位を全うすることができたのである。・・・
静御前<(注42)>が残した[(鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞等の)]エピソードは、彼女の悲劇の生涯とプライドの高さを物語っている。
(注42)1165~1211年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%BE%A1%E5%89%8D (すぐ上の文中[]内も)
美貌と踊りの腕によって、義経というスターを射止めたという自信が<頼朝方に>とらわれの身となった時にもくずれることがなかったのである。
そして静御前の直後には、遊女としての性的な生き方と、芸の腕の両方で、後鳥羽上皇をとりこにした白拍子も現れた。
・・・後鳥羽上皇はは亀菊<(注43)>という白拍子を寵愛し、摂津国の長江荘と椋橋荘を所領として与えていた。
(注43)「鎌倉で上皇と良好な関係を持っていた鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府は上皇の親王を新たな将軍として鎌倉へ迎える事を要請した。上皇は亀菊の所領である両荘の地頭が領主の命令を聞かないので免職にして地頭を廃止せよと要求して幕府に譲歩を迫る。幕府は上皇の要求を拒否して両者の交渉は決裂、この亀菊の所領問題を絡めた将軍東下問題は、上皇と幕府の関係を悪化させ、2年後の承久の乱の一因となる。
・・・亀菊は乱後の上皇の隠岐島配流に同行したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E8%8F%8A
ところがそのかたわら亀菊は僧侶と密通していたという。」(153~155、157)
⇒こんなところにも、(上皇達を流刑に追い込んだところの、)傾城の美女がいたわけですね。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その12)
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