太田述正コラム#9013(2017.4.4)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その14)>(2017.7.19公開)
「1175(承安5)年、13歳から30年にわたって比叡山(天台宗)で修行を重ねてきた法然は、天台宗と決別して専修念仏の道に進むことを決意し、京都・東山の吉永というところで布教を開始した。
これが浄土宗の始まりだが、その頃は吉永という住所から吉永教団と呼ばれた。
専修念仏とは、観想念仏と称名念仏と2つある念仏のうち観想念仏を排して称名難物のみを心のよりどころにしようというもので、法悦(宗教的なエクスタシー)を感得しようとする点では、良忍の跡を継ぐものであった。
しかし、この運動は参加する男女たちの心に別の感情をかき立てた。・・・
1206(建永元)年、後鳥羽上皇の留守中に、上皇の寵愛を受けていた松虫と鈴虫という2人の側室が御所を抜け出し、法然の弟子の安楽房と住蓮房が開いていた念仏法会に参加するという事件が起こった。・・・
松虫と鈴虫<は>その場で出家を懇願し<、叶えられ>たばかりか、安楽房を上皇不在の御所に招き入れ、そのまま泊めたのである。
⇒「自宅」での3P
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
の可能性があった、ということですよね。
仮にそうであったとすれば、女性達のこのあたりの感覚は、第一次縄文モードのままですねえ。(太田)
面子をつぶされた上皇は激怒し、専修念仏の停止(ちょうじ)を命じ、安楽房と住蓮房に死罪を言い渡したほか、別の2人の僧侶も「同類」として死罪に処した。・・・
⇒一方の上皇の方は、その感覚が第一次弥生モードに切り替わっていたところが悲劇でした。(太田)
さらに宗祖の法然と、高弟である親鸞を流罪とし、法然は讃岐・・・へ、親鸞は越後・・・へ流されたのであった。
これを浄土宗や浄土真宗では「承元の法難」<(注49)>と呼んでいる。・・・
(注49)この法難(じょうげんのほうなん)は、背景として、新興宗派たる吉永教団に対する南都北嶺からの批判があったところに、松虫・松虫事件が出来したことが転機となって起こったもの。
但し、「歴史的事実として確認されているのは、法然の流罪と門弟2名(住蓮房・安楽房)の死罪だけ」であって、この2名「の処刑については浄土宗側の記録にしか記されておらず、公家政権側の記録・日記類には記されていない(同時代の『愚管抄』が斬首の事実のみを記している)<し>、・・・そもそも処刑を上皇の命令とする根拠は親鸞の『教行信証』後序にしか存在しないことから、住蓮房・安楽房の処刑は当時横行していた検非違使<の上皇の気持ちの忖度>による恣意的な殺害であって、突然の両名の処刑を知った親鸞が朝廷内部の事情に通じないまま憶測で書いてしまった可能性<があ>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%85%83%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3
⇒「配流・・・の時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪され<、>法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられ」ているが、「当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では<親鸞は>配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E
が、「他の仏教宗派に対する<、(親鸞を教祖とする)>浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、戒律がない点である(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)<ところ、>そもそもは、「一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や、世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である」と、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子をもうけたことに由来する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97
という「通説」は綺麗事に過ぎているのではないでしょうか。
(さすがの下川も、本件については沈黙しているけれど、)念仏に痺れた女性達の猛烈なアタックに、良忍や法然らは何とか抗し得てこれたものの、親鸞は、恵信尼(ら?(太田))のアタックに抗しきれず、陥落してしまったばかりか、ステディな関係まで取り結んでしまい、そのことを正当化する「教義」を後付けで創作せざるを得なくなっただけである、という気が私にはしてきました。
(もとより、それは親鸞の弱さもさることながら、恵信尼が教養の深い魅力的な女性であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E4%BF%A1%E5%B0%BC
ためでもあったと思われますが・・。)(太田)
法然は約1年で許され・・・1211(建暦元)年、・・・親鸞も・・・許されたが、法然は2か月後に死亡、法然に会えないことを知った親鸞は・・・越後から下野国へと移りながら布教活動に没頭して彼の王国を造り上げたのである。」(163~166)
⇒これも、単に、妻帯を嘲笑されることを恐れ、法然の死に藉口して帰京を敬遠しただけなのではないでしょうか。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その14)
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