太田述正コラム#0462(2004.9.4)
<アーサー王の謎(その2)>

3 サルマタイについて

 アーサー王伝説が示唆しているのは、イギリス人がブリトン人だということだけではありません。最近明らかになりつつあるのは、アーサー王伝説が、サルマタイがイギリス史に及ぼした影響を示唆している、という点です。
 サルマタイ(Sarmatia)は、スキタイ(Scythia)と近縁の、コーカサス地方の北部にして黒海とカスピ海の間に住む、女性も戦士となる民族、とヘロドトスが紀元前5世紀に記したことによって世に知られるようになりました。ヴォルガ河とドン河の間に住んでいたアラン(Alan)もサルマタイの近縁民族とされてきました。サルマタイはローマ帝国時代には、帝国の東部をしばしば侵した勇猛な民族としてローマの諸文献に登場します。このサルマタイは、スキタイとアランの末裔とされるオセチア(Ossetia)(注1)人がイラン系の言語を用いていることもあって、イラン系の遊牧民族と考えられてきました。

 (注1)たまたま現在、ロシアからの分離独立を図っているチェチェン人テロリストによる小学校襲撃・立て籠もり事件が起こっているが、その舞台が、オセチア人が住む北オセチア(正式にはオセチア・アラニア=Ossetia-Alania。ロシア内の一自治共和国)だ。ちなみに南オセチアはグルジアの一部。(http://ossetia.cjb.net/。9月3日アクセス)

 ところが近年、サルマタイ人に係わる新たな説が次々に登場しています。
 イギリスのランカシャー地方のリブチェスター(Ribchester)にローマの砦があり、ここに2世紀から4世紀にかけてサルマタイ人からなるローマの部隊が駐屯していたことが分かっていました(http://www.pendle.net/Attractions/RibchesterRomanFort.htm。9月3日アクセス)。
 まず1996年に、これらサルマタイ人がブリテン島に馬の飼育と騎兵を持ち込み(注2)、芸術・衣服・神話に多大な影響を与えた、と主張する論文が現れます。この論文の中で、ハンガリーで発掘されたサルマタイ人の墓からマジャール(ルーン)語で記された遺物が出てきたことから、サルマタイ人はマジャール語の一種を用いていたと考えられるとの指摘もなされています。

 (注2)ローマ人もブリトン人も、そしてブリテン島に海を渡ってやってきたサクソン人等も戦闘は歩兵中心だった。

 翌年の1997年、今度は米国の学者が、アーサー王伝説成立についての新しい説を提示しました。
 175年にローマのマルクス・アウレリアス帝は5500人からなる部隊をドナウ河沿岸のサルマタイ人を徴用して編成し、その初代部隊長はローマ人のアルトリウス(Lucius Artorius Castus)であり、184年にこの部隊はガリアでの叛乱を鎮圧した(アーサー王伝説にもアーサーのガリアでの戦闘が出てくる)、という記録があるが、この部隊が恐らくリブチェスターに駐屯していたサルマタイ部隊だろうというのです。そして、後にこの部隊の部隊長をサルマタイ人がつとめることになり、その部隊長が代々アルトリウスの名前をとってArthurと称するようになり、その慣習が、ローマがブリテン島から撤退した後も続いたのではないか、というのです。
 更に、6世紀初頭のBadon Hill の戦いで、ブリテン島原住民(native)が侵攻してきたサクソン人を打ち破ったとされており、これが後にアーサー王伝説の中でアーサーの功績とされるのですが、実際にその頃、アーサー率いるサルマタイ部隊が原住民たるブリトン人と連携し、或いはブリトン人を率いてサクソン人と戦い、勝利したのではないかというのです(注3)。

 (注3)映画では、アーサーがアルトリウスとブリトン人の母との間の子供としているが、年代が合わないこと等は承知の上なのだろう。
また映画では、このアーサーがサルマタイ人中心の騎士達を率い、ブリトン人、更にはスコットランドのピクト(Pict)人(ブリトン人と同じくケルト系)と連携してサクソン人と戦う。ピクト人はブリテン島の北部にあってローマに抵抗し続けた民族。ピクト人征服をあきらめたローマは2世紀にブリテン島を横断する長城(Hadrians Wall)をつくってピクト人の侵攻を防いだ。(http://www.holyrood.org.uk/picts/。9月3日アクセス)
映画では、Badon Hillの戦いを、長城での戦いとして描いている。

更にこの学者は、アーサーが岩から引っこ抜いた剣であるエクスカリバー(Excaliber)、円卓(Round Table)、聖杯(Holy Grail)の話は、いずれもサルマタイの神話からの借用だと指摘しました。
その後これらは、いずれもマジャールとも関係の深い話であることも明らかにされつつあります。
 (以上、特に断っていない限り、http://www.acronet.net/~magyar/english/1997-3/GRAIL.htm(9月1日アクセス)による。)
 昨2003年には、米国とドイツの女性の学者が、サルマタイの女性戦士の墓を発見し、ヘロドトスの記述を裏付けると同時に、遺骨のDNA鑑定の結果、古代サルマタイ人はイラン系ではなく、現在のカザフ人(蒙古系)と遺伝子的に極めて似通っていることが分かりました。この鑑定結果については、英ケンブリッジ大学のお墨付きも得られています。(http://www.nationmaster.com/encyclopedia/Sarmatians及びhttp://www.thirteen.org/pressroom/release.php?get=1272(9月1日アクセス))

 つまり、アーサー王伝説の主要要素はサルマタイの神話に由来するものであり、かつ、サルマタイは蒙古系の民族(注4)だということが明らかになったのです。

(注4)これまで欧州・イギリス史に大きな影響を与えた蒙古系の民族としては、
ア フン(Hun=匈奴(Xiongnu)。4世紀後半に東ゴートを征服し、西ゴートをローマ帝国内に追いやり、これをきっかけにゲルマン民族大移動が始まる。アッチラ(Attila)王は有名。フンの近縁ないし末裔がブルガル。http://www.fernweb.pwp.blueyonder.co.uk/mf/huns.htm(9月3日アクセス。注2内では以下同じ))、
イ ブルガル(Burgar。後に被支配者たるスラブと混淆し、7世紀後半にブルガリアを建国。タタールはブルガルの末裔の一つと考えられている。http://en.wikipedia.org/wiki/Bulgars及びhttp://www.bartleby.com/65/bu/Bulgars.html)、
ウ アヴァール(Avar=柔然(Juan-Juan)。フンの西進の後、トルコ系の鮮卑(Blue or Celestial Turks)がモンゴル高原に侵入し、これに押し出される形で西進し、8世紀中頃に東欧に達した。9世紀初頭ブルガルに滅ぼされる。http://www.fernweb.pwp.blueyonder.co.uk/mf/avars.htm)、
エ マジャール(Magyar。9世紀末に現在のハンガリー付近に侵入・占拠し、ハンガリーを建国。http://www.geocities.com/egfrothos/magyars/magyars.html及びhttp://campus.northpark.edu/history/WebChron/EastEurope/Magyars.html)、
    オ モンゴル(Mongol。13世紀前半に東欧を席巻。1241年のオゴタイ汗(Ogadei khan)の死が伝えられるとモンゴルは東欧から兵を引き揚げた。http://historymedren.about.com/library/prm/bl1mongolinvasion.htm以下)、
があげられてきたが、これにサルマタイが加わることになる。

4 暫定的結論

 以上から、イギリス人とは、ローマ領期末期にサルマタイの影響を受けたブリトン人が、欧州からブリテン島に渡ってきた少数のアングロサクソン(ゲルマン人の支族たるアングル人、サクソン人、ジュート人等の混血)の持ち込んだ文明を身につけたものである、というのが私のとりあえずの補正された結論です。

(完)