太田述正コラム#9027(2017.4.11)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その17)>(2017.7.26公開)
 「踊り念仏は燎原の火のように広がり、現代にまで伝わる2つの風習の源泉となった。
 その1つとして現在、寄付金集めの際に用いられる「芳名帳」は、踊り念仏から始まったものだという。・・・
 一遍上人<らが>・・・地方を巡回し・・・踊り念仏を披露し<た>・・・際、村人が何がしかの金を寄付すれば、時宗の名簿に名前が記入され「念仏札」が与えられた。
 これを「賦算」といい、これがのちの「芳名帳」の原点となったのである。
 賦算に応じた人は16年間で250万人に達したという。
 当時の日本の人口は500万人から1000万人と推定されているから、単純にいえば2人に1人から4人に1人が応じたという計算である。
 もう一つのポイントは「踊り念仏」から「念仏踊り」への変化である。・・・
 踊り念仏はあくまで時宗の修行者やどうちゅ者による宗教的な行為であり、踊りを通して「無我の境地」を目指す祈りでもあった。
 これに対して念仏踊りの場合、踊り念仏から派生した芸能であり、ところによっては村祭りの一つとされたqから男も女も着飾り、白装束で背中に旗印を背負うなどの工夫も凝らしていた。・・・
 <この>通俗的で<世上>遊女みたいな<と揶揄された>踊りはたちまち日本の村々に伝播し、踊りのスタイルも歌の内容も、楽器もテンポも、さまざまな形式のものが創り出されていった。
 これが次の時代に「盆踊り」<(注54)>として定着するのである。」(172~174)
 (注54)盆踊りには後でまた言及されるのかもしれないが、ここで補足しておく。
 「踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盂蘭盆会の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事として定着していった。・・・日本では性は神聖なものとされ、神社の祭礼を始めとし、念仏講、御詠歌講など世俗的宗教行事の中心に非日常的な聖なる性があるべきと考えられるようになり、盆踊りは性の開放エネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになる。・・・盆踊りは未婚の男女の出会いの場にとどまらず、既婚者らの一時的な肉体関係をもつきっかけの場をも提供していた。ざこ寝という、男女が一堂に泊まり込み乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びつき広ま<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%86%E8%B8%8A%E3%82%8A
 「弘法大師(空海)が中国からもたらしたさまざまな経典の中に『理趣経』<(コラム#7443)>と呼ばれるお経があった。
 仏教の教えでは性交は不淫戒によって禁じられているが、『理趣経』は性交を通じて即身成仏にいたると説いている点が大きな特徴だった。<(注55)>
 (注55)理趣経「では男女の性行為や人間の行為を大胆に肯定している<が、>・・・最後の・・・部分<で>「人間の行動や考えや営み自体は本来は不浄なものではない。しかし、人たるものそれらの欲望を誤った方向に向けたり、自我にとらわれる場合が問題なのだ、そういう小欲ではなく世の為人の為という慈悲の大欲を持て。 大欲を持ち、衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切である」と説き、「清浄な気持ちで汚泥に染まらず、大欲を持って衆生の利益を願うのが人の務めである」と説かれている・・・
 <ところが、>「男女の交歓を肯定する経典」などと色眼鏡的な見方でこの経典を語られることがあったり、十七清浄句は欲望の単なる肯定であると誤解されたり、また欲望肯定(或は男女性交)=即身成仏であると誤解されたりする向きも多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C
⇒下川もまた、立川流(下出)についての俗説的に、『理趣経』を「誤解」(上掲)しているわけです。(太田)
 鎌倉時代にはそのセックス至上主義を教義の中心に据えた宗派が生まれた。
 それが立川流<(注56)>である。
 (注56)「宥快らによって邪教とされ、立川流の典籍は焼き捨てられた。そのため伝存する資料が少なく、実態は不明である。宥快の『宝鏡鈔』(14世紀)は男女陰陽の道を即身成仏の秘術としているとして立川流を指弾し、男女交合を説いたことが一般に立川流の特徴とされている。ただし櫛田良洪は、遺された立川流の印信を調べてもそのような教義を窺知させるところは見出せないと指摘しており、ステフェン・ケック (Stephen Kock) の研究では、通説に反して立川流の実態は真言宗の他の流派と大きく異なるものではなかったとの見解が提出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)
 立川流は真言宗の僧の最高位である阿闍梨にまで上り詰めた仁寛<(注57)>(じんかん)によって開かれ、京都・醍醐寺三宝院の僧だった文観<(注58)>(もんかん)によって大成されたとされている。
 (注57)?~1114年。「村上源氏の嫡流にして左大臣の源俊房の子・・・鳥羽天皇の暗殺を図った<咎で>・・・伊豆へ・・・流され・・・武蔵国立川出身の陰陽師・・・と出会った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AF%9B
 (注58)1278~1357年。出自は不明。「後醍醐天皇に重用され・・・南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となる。・・・楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%B3
⇒仁寛も文観も、政治的にも活躍した、それぞれひとかどの人物であり、政敵も多かったはずであるところ、とんだ誹謗中傷の対象となった、といった感じですね。(太田)
 仁寛は武蔵<国の>立川・・・に住んでいた陰陽師のグループに教えを伝授した。
 そこから広がったところから、こう呼ばれる。」(175)
(続く)