太田述正コラム#9029(2017.4.12)
<ナチが模範と仰いだ米国(その5)>(2017.7.27公開)
フライスラーは、(著者の言葉によれば、)その、「法に関する、気軽で、拡張可能で、一目見たら分かる流儀(its easygoing, open-ended, know-it-when-I-see-it way with the law)」から、米国のコモンロー人種主義を好んだ。
人種についての科学的諸定義は必要とされなかったということだ。
<換言すれば、>大衆的偏見だけで物事を進めるのに十分過ぎたわけだ。
この米国の経験は雄弁に物語っている。
ジムクロウ人種主義は、人民の諸感覚に立脚した法的リアリズムであった、ということを。
ベルンハルト・レーゼナー(Bernhard Losener)<(注8)>のような、他のナチ法学者達は、<このような>コモンロー的アプローチに異を唱えた。
(注8)1890~1952年。ナチスドイツの内務省の法律家にしてユダヤ問題専門家。ニュルンベルク諸法の起草に携わった者達の一人。祖父母の1人~2人がユダヤ人であった者がユダヤ人の定義から除かれたのは彼のおかげであるとされている。彼は、ユダヤ人に同情的であるとして、1944年に逮捕されている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bernhard_L%C3%B6sener
(彼の学歴等については、)父親が裁判官で本人も法学を学んだ(ということしか分からなかった)。
https://de.wikipedia.org/wiki/Bernhard_L%C3%B6sener
彼らは、何がユダヤ人であるかを決める科学的方法がないのに、個々の裁判官が、人種的諸直感に立脚した諸判示を行うことを認めるわけにはいかない、と苦情を申し立てた。
レーゼナーは、反ユダヤ主義は人種的「科学」にしっかりと立脚している必要があるという理由から、「ユダヤ人憎悪の漠然とした諸感情」だけでは不十分である、と執拗に主張した。
レーゼナーは、ナチの、人種と民族意識(peoplehood)に係る、具体的な(hard)科学的諸事実を強調する側に立ったのに対し、もう一方には、ドイツの力を推進するための新しい諸規則の即興的創出<を強調>する側があった。
そして、即興の側が勝利を収めた。
<そういうわけで、>誰がユダヤ人に計上されるかについて明確性を欠いたため、戦争の間、ナチ達は、ドイツ人とユダヤ人の混血(Mischlinge)を、必要に応じて、使ったり殺したりすることとなった。
ナチ達は、米国が、平等で自由な諸原理によって運営されていることは知っていた。
しかし、彼らは、我々<米国人達>が、その理念に対して人種に立脚した諸例外を設けていることもまた指摘していた。
法学教授のヘルベルト・キエール(Herbert Kier)<(注9)>の言葉によれば、米国は、「政治的イデオロギーが立ちはだかっている場合ですら、彼らの、人種的血統(descent)に従って人間達を隔離する必要性に係る自然のままの力が、ものを言う」ことを示したのだ。
(注9)1900~73年の東独の国際法学者のことか。
https://de.wikipedia.org/wiki/Herfrid_Kier
ヒットラーは、『我が闘争』の中で、ナチズムはアーリア人達に平等な機会を与えるプロジェクトであるとの理由から、米国を、その社会的流動性(social mobility)に関して寿いだ。
1930年代の最末尾に至るまで、フランクリン・ローズベルトのニューディールは、ナチ達の間で人気があった。
すなわち、この大統領は、南部における黒人隔離を放置しつつ、白人たる米国人達全員の諸展望を推進するために独裁的諸権力を掌握していた、と彼らは言及したものだ。
この本の完結部分の諸頁において、著者は、ナチによる米国の法文化の是認(approval)は熟考に値することを示唆している。
米国人のコモンロー好みは、通常、法的意思決定に係る、我々<米国人達>の実際的にして柔軟なアプローチの徴表と見られているけれど、それは、人民の諸偏見を重視することもできる。
犯罪や不法移民達に対して厳しくあれとの声のような人民の間の諸ムードは、専制的狂信(fanaticism)の諸種を運ぶことができるのだ、と。」(F)
(続く)
ナチが模範と仰いだ米国(その5)
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