太田述正コラム#9031(2017.4.13)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その18)>(2017.7.28公開)
「秀吉は荒れ果てた京都を復興させるために、市民からアイディアを募集、「いかなる身分の低い者でも、国が富み、民が栄える案を抱く者は申し出る」よう、市中に告知させた。
⇒残念ながら、この箇所に典拠が付されていませんが、これが史実であっても不思議ではないでしょう。
権力者が、「民が栄える」ことを追求した文明など、世界広しといえども、日本文明とアングロサクソン文明くらいであって、他には殆どない、ということを私は繰り返し指摘してきたところです。(太田)
これに応じて遊郭の解説を願い出たのは家来の原三郎左衛門<(注59)>だった。・・・
(注59)「足利家の被官」とする説、
https://www.facebook.com/kyoto.shimabara.hanasugata/posts/772490709565188:0
「浪人」とする説
https://books.google.co.jp/books?id=YfiNmf0yT6cC&pg=PA58&lpg=PA58&dq=%E5%8E%9F%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80&source=bl&ots=tlWKQzkZ3G&sig=MrTuj5J7LijJioKLMPNDLt7Kg_c&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwivgJbzkqHTAhXHULwKHesPB3UQ6AEITjAI#v=onepage&q=%E5%8E%9F%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80&f=false
もあるようだ。
「秀吉の馬の口取」(すなわち、秀吉の家来)とする説
http://gionchoubu.exblog.jp/tags/%E5%8E%9F%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80/
も確かにある。
なお、この典拠には、彼が、「天正十三年(1598)後陽成天皇時代、・・・、洛中の遊女町を一つ場所に集め傾城町をつくり都の繁栄に当たりたい、と<秀吉に>申し出てこれを許され<た>」、とある。
遊女を集めて遊郭を開設し、飲めや歌えやで人々を慰めれば、京の町は賑わい、国家も安泰になるだろうというわけである。・・・
<(>京都ではこれ以前から売春が公認されており、中でも足利時代の1528(大永8)年には1年で15貫文の税金を納めれば、誰でも売春<業>が可能とされていたことが記録に残っている。・・・
ただし15貫文・・・<は>180万円から200万円にもなる大金で、おいそれと出せる額ではなかった<)>・・・
秀吉はこの案に飛びつき、さっそく工事に取りかかることを命じたという。
この場所が平安京の万里小路(までのこうじ)にあたるところから万里小路の色街、あるいは秀吉の時代の地名から柳町の色街と呼ばれた。
<なお、>遊郭という言葉は藤本箕山<(注60)>の造語で、これが定着するのは<彼の著書である>『色道大鏡』<(注61)>が出た1678年以降のことである。・・・
(注60)ふじもときざん(1626~1704年)。「富裕な町人の家に生れ,若くして遊びの道に入り,また松永貞徳門で俳諧を学んだ。・・・家運が傾いて客から幇間へ立場を変え<た。>・・・はやく1656年(明暦2)に大坂の遊廓新町の評判記《まさりぐさ》を刊行したが,その後全国的規模の色道百科全書の編述を志し,多年研鑽の成果として,78年(延宝6)近世色道学のバイブルとも称されている奇書《色道大鏡》を述作した。俳諧をたしなみ,古筆目利(鑑定家)としても名高い。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E7%AE%95%E5%B1%B1-124511#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
(注61)「全国の遊里を 30年にわたって歩き,集めた資料をもとに,遊里のしきたり,色道の極意,遊所案内,遊女伝などを述べた大作。井原西鶴の好色物などのちの文学へ影響を与えた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%89%B2%E9%81%93%E5%A4%A7%E9%8F%A1-72664
⇒さしずめ藤本箕山は、下川の大先達、といったところですね。
ところで、「注60」に登場する松永貞徳ですが、「父は松永永種で、母は藤原惺窩の姉。永種は松永久秀の子であったという説がある。また、永種は入江氏の出(入江政重の子)で、久秀の養子であったとも言われる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3
というのですから、彼は私の言う弥生系ですが、「注61」に登場する井原西鶴は、「裕福な町人の出<・・縄文系!(太田)・・>と言われているが、推測の域を出ない」とされているところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8E%9F%E8%A5%BF%E9%B6%B4
私は、本当は弥生系なのでは、と見ています。
仮に縄文系だったとすれば、西鶴は、日本の著名文学者達は昔からことごとく弥生系だった、という私の説における珍しい例外である、ということになるでしょうね。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その18)
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