太田述正コラム#9043(2017.4.19)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その21)>(2017.8.3公開)
「江戸で最初の大店は白木屋<(注69)>で、1662(寛文2)年、京都の材木問屋白木屋が日本橋に小間物屋を開業した(1999年閉店)。
(注69)「開店から3年後の寛文5年(1665年)に当時の一等地であった日本橋通り1丁目に移転し、近隣を買収しながら徐々に店舗の拡張を進めていった。
また、・・・徐々に取り扱い品目を拡張して呉服太物商の仲間入りを果たした。
その後、・・・越後屋(現・三越)や大丸屋(現・大丸)と並んで江戸三大呉服店の一つに数えられる大店に成長した。
1878年(明治11年)・・・の新装開業の際に、木馬やシーソーなどを備えると共に蕎麦屋や汁粉店、寿司店などの飲食店も出店する遊戯室を設けており、販売方式の面で百貨店化すると共に、飲食店を併設するという面でも<日本の>百貨店の先駆けとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88)
続いて伊勢の三井家が江戸に進出して越後屋<(注70)>(現在の三越)を開いたのが1673(延宝元)年だが、これらの大店では大番頭から飯炊きまですべてを男性でまかなっていた。
(注70)「正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。・・・1683年 – 大火にあい、本町から駿河町に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置。1691年 – 大阪・高麗橋一丁目に越後屋大阪店と両替店を開設。・・・1928年には「株式会社三越」となった。「三越」改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりとすることが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%8A
店の主人側からすれば、極端な男社会<であった江戸(注71)>で、女中に店の前を掃除させたり、使いに出したりすれば、何が起こるか分からないという不安がつきまとったのである。
(注71)少し後の「享保7年(1722)に<は、>江戸の町方人口48万3,355人のうち男子31万2,884人、女子17万471人であり、性比は184と女子に対して84%男子が多かっ<た。>・・・江戸時代末期の江戸では、ほぼ性比は100・・・すなわち男女のバランス<が>とれていったと考えられる。・・・奉公人人口比率が江戸時代末にかけて大きく低下し、奉公人が雑業者層に代替されたからである。」
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7850.html
一方、職場から町中まで、女性が一人もいないという風景も異常で、男の奉公人の勤労意欲にも響いた。
・・・これらの大店では・・・店の経費で吉原の妓楼と契約を交わし、毎日順番に遊女と遊ばせていた・・・。
また、・・・白木屋の奉公人が女郎と遊んで店の金を使い込むことは必要悪として大目に見られた・・・。
⇒これは恵まれた奉公人であった町人のケースであるわけですが、男女比で町人に勝るとも劣らない「過酷」な環境下にあった武士に関しては、この類の「厚生」制度は全くなかったようであるところ、このような史実が、明治以降の旧軍の出征時における、(全球的標準にそぐわないということもあり、)公が関与するところの慰安所制度の導入が日支戦争時までなされず、しかも、江戸時代の大店奉公人向け的な「経費」補助が最後まで行われないままであったこと、に繋がった、という気がしないでもありません。(太田)
遊郭ができて半世紀後でもこういう状況だったから、それ以前となるといかに不自然な社会だったか想像がつくというものである。
そういう風潮を少しでも和らげるために開設されたのが吉原遊郭で、大阪・夏の陣から2年後の1617(元和3)年、現在の日本橋人形町に開かれた。
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その21)
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