太田述正コラム#9051(2017.4.23)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その23)>(2017.8.7公開)
新吉原の繁栄を裏から支えたのが、幕府と業者の官民一体化が実現したことであった。
一体化の最大のポイントは遊郭を幕府の下部機関と見なして、犯罪の取り締まりや、遊女の足抜けの予防など半自治権を認めたことである。
これによって遊郭業者は自由裁量に近い営業が可能になった。
⇒江戸時代においては、遊郭に限らず、あらゆる業種で、この種の省力ガバナンスが行われていました。
ですから、プロの行政官(当時は政治家、裁判官を兼ねる)の人数(常勤換算)は少なく、税負担も軽かった(注74)のです。
(注74)「江戸時代後半の発展の理由の一つに、抜け穴だらけの検地(山奥の隠し田・米以外の畑は対象外)の結果、低税制であったからという事実がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%9F%E7%A8%8E
日本型政治経済体制は世界でただ一つ、成功した社会主義政治経済体制であると言ってよいでしょうが、江戸時代のプロト日本型政治経済体制は、さしずめ、世界でただ一つ、成功した無政府主義政治経済体制であった、といったところでしょうか。
これを可能にしたのが、日本社会の人間主義性です。(コラム#省略)(太田)
また細かい部分での幕府との融合も進み、幕府は移転の条件として、これまで2町四方だった用地を3町(約330メートル)四方に拡大し、移転費用として1万8000両を援助した。
その上、遊郭の商売敵であった湯女風呂の営業を禁止し、1668(寛文8)年と1684(貞享元)年には、営業を続けていた湯女をそれぞれ512人と300人捕らえて新吉原の遊女とするなど、幕府のバックアップのもと「フーゾク業界」における新吉原遊郭の天下が構築されたのであった。
こうして1656(明暦2)年に2552人だった新吉原の遊女は、・・・1846(弘化3)年7197人とうなぎ登りに増え続けた。
なお遊女の中で、最上級の者を太夫といい、太夫の値段は一晩で1両以上(15万円くらい)とされた。
これはセックスだけの代金であり、ほかに太夫自身や下働きの男女に対するお土産や心付けも必要だったので、実際には3倍以上の金が消えた。
それだけの金を自由にできる客となると、大店の主や大名・家老クラスに限定されるが、そこに1つの悩みがあった。
それは客の中に老人が多かったことである。
太夫はきらびやかな着物を着て、郭内をゆったりと歩いて客の待つ茶屋へ出向き、しばし酒でも飲みながら言葉を交わす。
その後、いったん引き下がり、着物を脱いで床で客を待つのだが、その間に男性自身が精気を失い、できなくなる例がしばしばあったのだ。
これは京都の遊郭の話だが、その悩みを解決するために、それぞれの妓楼にはエロ話に長けたやり手婆(たいていは遊女上がりの30歳以上の女性が務めた)がいて、男性自身が勃起し続けるよう、刺激的なエロ話を続けていたという。」(200~206)
⇒このあたり、一切典拠が付されていないのですが、面白いので、殆ど端折らずに紹介させてもらいました。
なお、下川が触れていない重要な話を補完しておきます。↓
「江戸には幕府が公認している吉原遊郭のほか、ありとあらゆる場所に売春街<(=岡場所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%A0%B4%E6%89%80
)>や女郎屋があり、また、街角では夜になると<同様>幕府非公認の夜鷹(現在で言う立ちんぼ)が出現していました。・・・
当時吉原の遊女というと特別な存在で、・・・頭も良く教養もあった為、遊女を娶るという事、それは男の憧れであり、ステイタス・・・甲斐性・・・でもあったようです。現在とは感覚が違い、幕府公認で世間も認めた場所で働いている女性と夫婦になるということもあり、けっしてスキャンダルではなく、・・・借金の為、仕方なく幕府公認の遊郭で働いている、美人で教養もある素晴らしい女性を、お金を出して助け出し、夫婦になるという、お涙ちょうだいのお話かもしれません。」
http://www.bb029.com/2006/01/post_34.html
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[江戸時代の売春と性病]
表記について、この本には言及がなので、ここで簡単にまとめておく。
「「唐瘡」「琉球瘡」と呼ばれた梅毒は、南蛮からもたらされたというのが定説。「その伝来は鉄砲よりも早く、1510年代に、中国人や琉球人が南蛮人から感染し、九州から全国各地へ伝播したと考えられる・・・
戦国時代の男性<は、>「5人に1人は梅毒などの性病だった」説<まである。>・・・
梅毒以外の性病が蔓延していたことも考えられるが、淋病は重症化し死因となることがまれで史料に残されることが少ない。
江戸時代に入ると吉原などの遊郭が発達することで、梅毒の流行に拍車が掛かる。『解体新書』の著者で医師の杉田玄白の回想には「1000人の患者のうち、700~800人は梅毒だった」という記述も残されている。さらに幕末に西洋医学を日本に伝えたオランダの医師・ボンベは「日本人は夫婦以外との性行為に対する罪悪感がない。遊郭での性病対策もなく一般家庭に蔓延している」と指摘した。」
http://www.news-postseven.com/archives/20160528_410773.html
「病中の遊女が押し込められる部屋のことを吉原用語では「鳥屋(とや)」とよび、遊女が苦しんでいる様はニワトリが卵を産む様子に喩えられたとか。激しい苦しみを乗り越えた遊女は痩せこけ、青白い肌になってしまうのですが、・・・梅毒を経験した遊女からは「人間らしさ」が消え去るというのです。そして、彼女たちは二度と本当の恋をすることもなく、子どもを妊娠することもなく、スタイルもスマートになる。まるで天女のようだ……と・・・
症状を、素人時代にすでに「経験ずみ」の女性は、吉原に売られるという時にも、「未経験」の女性よりも高い値段で買われ、遊女屋でも厚遇されました。ちなみに遊女だけでなく、芸者などの場合も、梅毒を経験するまでは一人前に扱われず、お給料は安かったそうです。」
http://news.livedoor.com/article/detail/9864536/
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(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その23)
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