太田述正コラム#9061(2017.4.28)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その25)>(2017.8.12公開)
「・・・江戸時代になって平和な時代が到来した時、一向宗の阿弥陀さん信仰と教義の中心である「四十八願」<(注78)>は、庶民の守り神として大変なブームを呼んだ。
(注78)「浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。
『仏説無量寿経』のサンスクリット原典である『スカーバティービューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
浄土宗、浄土真宗などの浄土教系仏教諸宗では、特に「第十八願」を重要視する。・・・
第十八願<:>設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法<–>わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
法然はこの願を最も重要な願ととらえ、『選択本願念仏集』において、「故知 四十八願之中 既以念仏往生之願而為本願中之王也」と解釈したことから、「王本願」とも呼ばれる。
親鸞は『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」の真意を、「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。としている。
派生…歌舞伎などで「得意とする部分」の意味で用いられる「十八番」(おはこ)は、十八願から出来た言葉との説がある。・・・
法蔵菩薩とは、阿弥陀仏の因位の時(修行時)の名。・・・わたしの国とは、阿弥陀仏の仏国土、つまり極楽浄土のこと。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98
四十八願とは阿弥陀如来が理想とする浄土に不可欠な48の条件という意味であるが、庶民の間に死の恐怖から解放され、生きる喜びの表れとして性を楽しみたいという欲求が顕在化した時、「四十八願」ブームとその欲求が重ね合わされ、性の理想を実現するための48の体位という形に転化されたのである。
⇒このくだりには典拠が付されていません。
下川の独自説であればあったで、その根拠を示すべきでした。
四十八手 (アダルト用語)のウィキペディアには、そのような起源を匂わせる記述すら皆無です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%89%8B_(%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E7%94%A8%E8%AA%9E) (太田)
その48の体位をイラスト付きで初めて紹介したのが菱川師宣<(注79)(コラム#8385)>の『表四十八手』であった。
(注79)1618~94年。「<世界>最初の浮世絵師である。・・・それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。・・・初作は寛文11年(1671年)刊行の噺本・・・であるとされ<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E5%B7%9D%E5%B8%AB%E5%AE%A3
⇒上掲ウィキペディアには「春画も数多く描いている。」とあるだけで、『表四十八手』は登場しません。米国の占領の後遺症にも困ったものです。
なお、「表」について、下川が「表裏合わせて九十六手ともいわれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%89%8B_(%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E7%94%A8%E8%AA%9E) 前掲
ことに言及していないのは不親切です。
いずれにせよ、浮世絵には春画もあったということではなく、春画として始まった可能性が大ですね。(太田)
それまでにも相撲の四十八手にならって、体位のことを四十八手と呼ぶことはあったが、具体的にどんな退位なのか、男女の姿態や効能に触れたものはなかった。
⇒相撲の四十八手のウィキペディアには、そもそも、「相撲における決め技のことで、室町時代からその名が見られる。古来の日本では、「縁起の良いたくさんの数」として48を使用した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%89%8B
とあります。
前出の下川独自説(?)を成り立たせたいのであれば、この相撲の四十八手の起源もまた四十八願であることを、典拠または根拠でもって、下川は示すべきでした。(太田)
『表四十八手』はそれを具現化したもので、刊行されたのは1677(延宝5)年頃であった。・・・
この書が世間に与えた影響は大きく、類書が相次いで刊行された。・・・
ただし<、それらに>は決定的な違いがあった。
それは、師宣の『表四十八手』には、「現代的な意味では体位とはいえない」ものが含まれるにせよ、まがりなりにも48種類がそろって<いたけれど、>・・・<以後、>四十八手をきちんとそろえたものは1点もない。・・・
<なお、>阿弥陀さん信仰と「四十八願」の教義は法然の浄土宗でも、もっとも重要視されているが、一向一揆が庶民のための反乱であることを知っていた江戸時代の庶民には、圧倒的に一向宗(浄土真宗)の方が人気が高かった。
幕末には日本の家族の4分の1が浄土真宗の信者といわれたほどである(」(216~217。221~222.224)
⇒本筋から離れますが、江戸時代というのは、浄土宗の松平家康(後の徳川家康)が浄土真宗の三河一向一揆(1563~64年)に苦しめられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
という前史を持つところの、公儀は浄土宗、庶民は浄土真宗、という体制だった、という見方もできそうですね。
というのも、徳川家の菩提寺は、岡崎の大樹寺(浄土宗。慶喜以外の将軍の位牌を収める)、及び、江戸の増上寺(浄土宗。秀忠以下将軍の約半数の墓所)、並びに、寛永寺(天台宗。家綱以下将軍の約半数の墓所)だからです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A8%B9%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E4%B8%8A%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA
(家康の墓所は久能山東照宮(神社)、家光の墓所は日光山輪王寺(天台宗)。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E8%83%BD%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
なお、大樹寺と徳川家康の馬印である「厭離穢土・欣求浄土」の因縁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%AD%E9%9B%A2%E7%A9%A2%E5%9C%9F
はご承知の方が多いはずです。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その25)
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