太田述正コラム#9065(2017.4.30)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その26)>(2017.8.14公開)
「元禄時代の初め頃、幕府の中で『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』<(注80)>という史料が作製された。
(注80)「元禄3年(1690年)から4年にかけて脱稿したと思われる。・・・
儒教色強い記述内容から徳川綱吉の意向が反映された可能性は高いが、幕府がどれだけ関わったのか、それとも幕府とは関係なく編纂された物なのか、ともかく、前書きも奥付も全くない史料のため、その編著者や目的などがいまだ不明の史料である。・・・
原本は和綴本全43冊、首巻に総目録、第1巻が徳川将軍家の始祖新田義重から家康までの略伝、第2巻~第42巻に支藩を含めた諸大名242人について、親藩を先に、次に諸藩(譜代と外様の区別無し)の順に記述されている。諸藩の中の順は、一部の例をのぞいて、ほぼ石高の高い方から降順に記述されている。・・・親藩、譜代、外様の区別を問わず、むしろ外様の大藩大名には比較的好意をもった評価が下されている。・・・
男色がまだ盛んな時代であり、美少年を小姓として大勢抱えている大名は激しく糾弾された。大勢の女性を側室として抱えていた大名も同様に糾弾された。・・・
著者は綱吉の側近、牧野成貞<(後出)>とする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%』C%9F%E8%8A%A5%E5%AF%87%E8%AE%8E%E8%A8%98
全43巻、全国243大名の家柄、学問、藩内の民情や農作物の栽培状況などを細かく調査した報告書で、その中には藩主自身の性的な嗜好も含まれている。・・・
<この>史料によれば、・・・女色に耽っている藩主が<徳川御三家のうちの二家の当主を含む>50人に及ぶという。
また、男色の藩主も・・・37人。・・・いずれも少年愛だったことが分かる。・・・
女色と男色の両刀使い<もいた。>・・・
元禄時代は5代将軍綱吉の治世である。
綱吉といえば、「生類憐みの令」という愚策<(注81)>を強硬に推し進めるなど、問題の多い将軍だが、その問題の一つに、彼の性的な側面があった。
(注81)「「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある。・・・<なお、>生類憐れみの令については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとされる。・・・
<ちなみに、綱吉の生母の>桂昌院<は、>・・・本庄家・牧野家(小諸藩主)・・・とゆかり<が>深い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89
「元禄15年(1702年)に越後国与板藩より牧野康重が1万5000石で入ることで、ようやく<信州小諸>藩主家が安定し、廃藩置県まで藩主を務めた。康重は、本庄宗資の4男で、牧野康道の養子に入った人で本庄氏の一族に連なったので、5代将軍・徳川綱吉の生母、桂昌院の義理の甥にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AB%B8%E8%97%A9
臣下の牧野備後守<(注82)>の正室である阿久里の方や、2人の次女の安子と通じていたことが分かっているし、その反面、異常な「美男子好み」として知られ、能役者から駕籠かきの若者、魚屋の庖丁人まで、男振りさえよければ、次々に小姓に引き立て、性の対象とした。
(注82)牧野成貞(1635~1712年)。「<綱吉の藩主時代の>上野館林藩家老、のち第5代将軍・徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主。・・・天和元年(1681年)、「御側御用人」に任じられた。これが江戸幕府で初めての側用人という役職であり、・・・貞享元年(1684年)、大老・堀田正俊が暗殺されたのを機に、老中の御用部屋が将軍の居所から遠ざけられたため、将軍と老中の仲介役として側用人の成貞が大きな力を持つようになる。・・・
貞享5年(1688年)4月21日から牧野邸へ綱吉が赴くことが増える(のべ32回、うち桂昌院同伴13回、また桂昌院単独は別に3回)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E6%88%90%E8%B2%9E
⇒綱吉の「阿久里と安」との親子丼不倫説は一説に過ぎない(上掲)ようですが、仮に事実だとすれば、マザコン綱吉が、桂昌院の付き添いの下で、桂昌院とゆかりが深い牧野家の一支流であった成貞の居宅に、その顔で出向いて不倫に耽ったという図式ですね。(太田)
1688(元禄元)年に小姓に取り立てられた美少年は10人、翌年は26人、1693(元禄6)年には町中で美少年を探すため「子供見立て」の役人まで設けられた。
また小姓に取り立てられた者が「お役ご免」になり、妻との間に子どもを作ると閉門を命じたという。・・・
自分と関係を持った者は、「お役ご免」の後も自分に対して操を通せというのであろう・・・。」(225、229、231~232)
⇒不思議なことに、下川は綱吉を買っていませんが、「8代将軍・・・吉宗は天和の治をおこなった綱吉に対して敬愛の念を抱き、吉宗の享保の改革の中にもその影響がみられるといわれている」(上掲)ところであり、綱吉は、若干の行き過ぎはあったにせよ、色好み、動物愛護、仁政、の3点セットでもって、江戸時代の縄文モード化を推し進めた名君であった、という見方ができるのではないでしょうか。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その26)
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