太田述正コラム#9069(2017.5.2)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その27)>(2017.8.16公開)
「松平定信<(コラム#51、1617、1626、2090、2833、4170、4175、4177、4324、4854、5358、5362、6936、7668、8070、8115、8442)>は白河藩主で、8代将軍吉宗の孫にあたるが、当時の幕閣<の中で、>・・・「(浮世絵などの影響で)庶民が茶臼などという手を使って、女房を喜ばせているのはけしからん」として止めさせるよう命じたという。
定信は朱子学者の林羅山<(コラム#1648、4149、5362、8066、8246、8302、9001)>が主唱した「上下定分の理」<(注83)>という説を信奉していた。
(注83)じょうげていぶんのり。「羅山が打ち出したのが「上下定分の理」である。羅山は寛永6年(1629年)に著した自著『春鑑抄』において、「天は尊く地は卑し、天は高く地は低し。上下差別あるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ」と記している。羅山によれば、天が上にあり、地が下にあることは時代の転変いかんによらない絶対不変の天理なのであり、それは君臣、父子、夫婦、兄弟などあらゆる人間社会の上下関係をも貫くものである。そして、士農工商の身分秩序もまた、天理によるものであるから不変不滅なものである、と述べる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%8B%E5%AE%9A%E5%88%86%E3%81%AE%E7%90%86
これは簡単にいえば「君主は尊く、臣下は卑しい」という考えで、その伝でいえば男は尊く、女は卑しいことになる。
その女が男の上になるなど、朱子学の教えに反するということなのだろう。
茶臼に目くじらを立てるくらいだから、四十八手のすべてが「もってのほか」というわけである。
定信<に>寛政の改革・・・を実行することを決意させた世相とはどんなものであったか?
・・・一つが春画に心を奪われて武士の身分を捨てた男たちであり、第2の流れが狂歌の流行であった。
武士から町絵師に変わった早い例として英一蝶<(注84)>(はなぶさいっちょう)がある。
(注84)1652~1724年。「父・伯庵は伊勢亀山藩の侍医(藩お抱えの国許の医師)であったが、一蝶が15歳の頃(異説では8歳の頃)、藩主の石川憲之に付き従っての江戸詰めが決まり、一家で江戸へ転居する。絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野安信に入門するが、のちに破門されたといわれる。・・・元禄6年(1693年)、罪を得て入牢する。理由は不明で、2ヵ月後に釈放される。元禄11年(1698年)、今度は生類憐れみの令に対する違反により、三宅島へ流罪となった。・・・宝永6年(1709年)、将軍・徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。この頃から英一蝶と名乗<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6
⇒藩医中の侍医ともなれば、まず間違いなく世襲の士席医師
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E5%8C%BB
であり、その子供であれば、長男でなかったとしても、一蝶も武士であったと思われ、にもかかわらず、藩主が命令で絵師の勉強をさせたというのですから、武士にとって、芸術家になることは身分を落とすことでは全くなかったことが分かろうというものです。
これまで何度も指摘してきたように、武家の棟梁は貴種(貴族崩れ)でなければならず、貴族がそうであったように、武家の棟梁も、当然、文武両道に長けていなければならなかったのであり、一般の武士も、そうありたいと思っていたはずである、と私は考えています。
また、文に関しては、源氏物語がそうであったように、色事がその中に含まれていて当然であり、(定信的な変わり者は別にして、)本来的には春画を排斥する観念もまたなかったのではないか、と想像されるのです。
従って、下川のこの前後の筆致にも私としては違和感があります。(太田)
一蝶は・・・町絵師とな<ってから、>吉原遊郭で幇間も務めた(伊勢亀山藩の藩医の息子との説もある)。
豪放磊落な性格で、豪商として知られる紀文や奈良屋茂左衛門らとも親交があったほか、多くの大名や旗本から贔屓にされた。
1693(元禄6)年、幕府は「大名及び旗本が吉原遊郭に出入りし遊ぶこと」を禁止したが、これは一蝶の影響で、遊女に入れあげたり、妾にする大名・旗本が相次いだためともいわれる。
1698(元禄11)年12月、一蝶は三宅島へ流罪となる。
・・・柳沢吉保の妻を遊女に、綱吉を脚に見立てた絵を描いたことが幕府の怒りを買ったものという。
島でも江戸の風俗画を描き続け、1709(宝永6)年、許されて江戸へ帰ってからは<絵師>として活躍、俳人として宝井其角(たからいきかく)や松尾芭蕉らとも交遊した。
織田湖龍斎<(注85)>は常陸・・・土浦藩主・土屋家の家臣の出である。
(注85)1735~90(?)年。「肉感を排した春信風の美人画から、現実の肉体を感じさせるたっぷりとした姿態をもたせた独自の画風を確立した。・・・天明2年(1782年)、絵師として名誉な地位である法橋に推免せられ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%92%E7%94%B0%E6%B9%96%E9%BE%8D%E6%96%8E
僧位ぶ、法印、法眼、法柱、があるが、「平安時代後期以降は・・・仏師や絵仏師、連歌師などにも与えられるようになった。近世になると絵師が任命される例が増え、武士の入道、儒者、医師などにも及んだ。絵師の中では、御用絵師だけでなく民間絵師も叙任されたが、その手続きは面倒であった。門跡寺院を窓口としてしかるべき旗本などの名義を借り師匠などに保証人を頼んだ上で町奉行に願書を提出し許可を得た後、寺院に再度申請を差し出し評定にかけられ武家伝奏を介して叙任の宣旨が下された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E4%BD%8D
⇒春画集を何冊も出していても、このような名誉が与えられ得たわけであり、上で述べた私の見解の正しさを裏付けています。(太田)
江戸詰めの時、好きな絵を通して錦絵の創始者である鈴木晴信と親しくなり、武士の身分を捨てて浮世絵師として立つことを決意したという。
湖龍斎は・・・11冊の春画集を刊行している(うち2冊は題名を変えた再摺る本)。
大身の旗本から本格的な浮世絵師に転身したのが細田時富<(注86)>であった。
(注86)鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし。1756~1829年)。「安永元年(1772年)・・・家督を継いでいる。絵・・・まで西の丸にて将軍徳川家治の小納戸役に列し絵の具方を務め、家治が絵を好んだので御意に叶い、日々お傍に侍して御絵のとも役を承っていた。天明元年(1781年)12月16日には布衣を着すことを許可されている。上意によって栄之と号し奉公に励んだが、天明3年(1783年)・・・辞して無職の寄合衆に入っている。・・・すでに天明(1781年~ 1789年)後期頃から浮世絵師として活動を始めて<いたところ、>・・・天明6年(1786年)には将軍家治が死去、その三年後の栄之34歳の時、寛政元年(1789年)・・・には病気と称して致仕、隠居した。・・・そして妹を養女として迎え、これに和三郎を婿入りさせて時豊と名乗らせ家督を譲った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E6%96%87%E6%96%8E%E6%A0%84%E4%B9%8B
⇒将軍自ら絵描きを趣味とし、絵の達人であったからこそ細田を傍に置いて重職に就け、その間に、彼は、(春画も書いたという話は伝わってはいないけれど、)浮世絵師としてもデビューを果たしているのですから、このことも、私の見解の正しさを更に補強しています。(太田)
細田の祖父と父は勘定奉行を務めたという名門だったが、彼は1783(天明3)年、病いを理由に勤めを辞退して・・・花魁<や>芸者<の>・・・美人画家に転身した。」(233~235)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その27)
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