太田述正コラム#0467(2004.9.9)
<ベスラン惨事とロシア(その4)>

<前回の補足>

ア 一般市民はなぜ現場にいたのか
 大部分が武装している約500人の一般市民が、当局の許可を得て治安部隊と校舎との間に「配置」され、包囲側と犯人側との間で戦闘状態となった場合、特殊部隊員が校舎から救出した人質を、安全な場所まで連れて行く役割を負わされていた、ということのようです。

イ 爆発はなぜ起こったのか
 犯人側が「処刑」した人質21人の死体を受け取る話がまとまり、包囲側の人間が校舎に向かったところ、体育館内で爆発が起こりました。
 犯人達の間で、このまま学校にとどまるべきか、それとも逃走を図るべきかで内紛が生じ、興奮した犯人一人が誤って爆弾を爆発させるひもに足を引っかけてしまった、ということのようです。

ウ 戦闘はどのように始まったのか
 (前日に仲介者として、乳児を含む人質26人の解放を成就させ、9月10日にも包囲側の本部にいた元イングーシュ大統領によれば、)爆発が起こり、人質の子供達が逃げ出して来た時、武装一般市民の一部が犯人側に向かって発砲を始めてしまいました。そこで、包囲側は犯人側に、「治安部隊は発砲していない」と伝えたのですが、犯人側から「爆弾を<更に>爆発させる」という返事があり、やむなく治安部隊に攻撃命令が出された、というのです。
この間、武装一般市民による発砲が起こった後、死体を受け取るべく校舎近くに接近していた前述の包囲側要員4人に犯人側から銃撃が加えられ、2人が即死します。そして残った2人は救出ができず、負傷したまま4時間も放置されることになります。
また、戦闘が始まった時点では、肝腎の特殊部隊はベスランから30km離れたところで、同じような校舎の小学校で攻撃訓練を行っており、ベスランに到着するまで40分かかり、貴重な時間を空費しました。

エ 戦闘時間
現地時間の午後1時過ぎから始まって6時過ぎまでで地上での戦闘は終わり、その後は地下室に立て籠もった犯人だけを相手に戦闘が続きました。すべてが終わったのは、(理由が判然としませんが、)午後8時から9時にかけて一般市民を現場から撤収させた後の、午後10時過ぎ以降のようです。

オ 犯人の数と素性は?
 犯人の総数は32人。うち30人は死亡し、2人はつかまり、そのうちの一人は、テレビで尋問風景が放映されました。
犯人達の素性については、当局の発表によれば、リーダー格が4人(4人とも死亡)いて、彼らがバサーエフ(Shamil Basayev。1965年??)(注7)に電話で指示を仰いでいました。(マスハドフ(Aslan Maskhadov。1955年??)(注8)の指示も仰いでいたとの未確認情報もありますが、マスハドフはこれを否定しています。)そのうちの1人はバサーエフのボディーガードのチェチェン人(またはロシア人)でもう1人はイングーシュの元警官であり、この二人は、6月にイングーシュで90人の死者が出た襲撃事件を引き起こしています。後は、ロシア人1人とオセチア人1人です。

(注7)チェチェンにおける1994年からの対ロシア軍ゲリラ戦の中から頭角をあらわす。チェチェンのみならず、全イスラム系民族のロシアからの独立をめざしていると公言。現在イスラム過激派と手を組んでいるが、本人は必ずしも熱心なイスラム教徒ではない。バサーエフは、1995年に(1000名もの医師や患者を人質にした)ロシアの病院占拠事件(コラム#464)を引き起こし、1999年にはダゲスタンに侵攻した(コラム#464)ほか、2002年の(百数十名の人質が死亡した)モスクワでの劇場占拠事件(コラム#465)でもその首謀者とされている。(http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/460594.stm(9月8日アクセス)も参照した)。現在神出鬼没。
(注8)軍人出身のチェチェン独立志向穏健派。1997年に「独立」チェチェンの大統領に、対立候補のバサーエフを破って当選。バサーエフを首相にしてその取り込みに腐心するが、結局バザーエフは離反し、ロシアのチェチェン再介入を招く。(http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/459302.stm。9月8日アクセス)現在所在不明。

残りの犯人の素性の詳細は明らかにされていませんが、チェチェン人、タタール人、カザフ人、及び朝鮮人が含まれているとされています(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200409/200409070043.html。9月8日アクセス)。

カ 包囲側の死傷者の数は?
 当局は、特殊部隊員の死者10人・負傷26人としか公表していませんが、実際には特殊部隊員20人以上が死亡し、その多くは銃を乱射していた武装一般市民達の弾が後からあたって死亡したようです(注9)。この特殊部隊以外の治安部隊員等や一般市民の死傷者の数は不明です。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-scene5sep05,1,1674464,print.story?coll=la-headlines-world前掲、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3634114.stm、(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A1256-2004Sep6?language=printer(どちらも9月8日アクセス)による。)

 (注9)この点とも関連し、イズヴェスチャ紙に掲載されたという、戦闘の後、200人の一般市民が行方不明になっているという記事(http://media.guardian.co.uk/site/story/0,14173,1299075,00.html。9月8日アクセス)は興味深い。武装一般市民達が、(人質を守るために?)特殊部隊員を「前から」撃ってその校舎突入を阻止しようとしたが故に拘置されているか抹殺された可能性もあながち否定できない。

<補足終わり>

(続く)