太田述正コラム#0468(2004.9.10)
<トロイとイギリス(その2)>

 (「ベスラン惨事とロシア」シリーズはまだまだ続きます(私のホームページでの前回のコラム#467の目次表示位置がズレているのでご注意)が、忘れてしまわないうちに、コラム#463の続きを書いておくことにしました。またもや、「歴史」モノですが、読者数がこれで減らないことを祈っています。)

 トロイ戦争(Trojan War)は、ホメロス(Homer)によって書かれた「イリアス(Illiad)」(アキレス=Achillesが主人公)と「オデュッセイア(Odyssey)」(オデュッセイ=Odysseusが主人公)という叙事詩において、ギリシャ半島のアカイア人(Achaean)と小アジア半島のトロイ人(Trojan)との間で戦われた戦争として描かれました。
ホメロスがこの二篇の叙事詩を書いたのは紀元前750年前後ではないかと考えられており、トロイ戦争は時期的にはそれ以前の話ということになります。
 現在の通説は、仮にトロイ戦争が史実だった場合、トロイ戦争は、イオニア人(Ionian)、アカイア人、ドーリア人(Dorian)の三つのギリシャ部族が同一民族意識を抱くに至った以降のいわゆる古典的ギリシャ人(Classical Greek)(注4)とトロイ人なる民族との戦争ではなく、ミケーネ人(Mycenaean)(注5)とヒッタイト(Hittite)(注6)の都市の一つとの間の戦争であったに違いないとしています。
 (以上、http://www.wsu.edu:8080/~dee/MINOA/HOMER.HTMhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%82%B9、及びhttp://edtech.floyd.edu/~lnewby/ancient_greece.htm(いずれも9月6日アクセス)による。)

 (注4)イオニア人:紀元前3000年前頃?にバルカン半島を南下してギリシャ中部や小アジア北西部に定住したとされる古代ギリシャの一部族。アテナイはイオニア人が建設した代表的なポリス。
アカイア人:前1200年ころにテッサリアから南下してペロポネソス半島に定住したとされる古代ギリシャの一部族。その一部は後にドーリア人に征服された。
     ドーリア人:前1200/前1100年頃に南下してペロポネソス半島に定住したとされる古代ギリシャの一部族。スパルタはドーリア人が建設した代表的なポリス。
(以上、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BAhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E4%BA%BA、及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA(いずれも9月6日アクセス)による。)
(注5)ミケーネ人:がミノア(Minoan)文明をつくりだしたクレタ島の先住民族の影響を受けつつギリシャ本土を中心に紀元前1600年頃からミケーネ文明(シュリーマンの命名)を興したイオニア人?のこと。ミケーネ文明は前1200/前1100年頃、ドーリア人?によって滅ぼされ、それ以降ギリシャは文字を失ったいわゆる暗黒時代(Dark Ages。前1200/前1100頃??前750年頃)に入る。(http://www.tabiken.com/history/doc/R/R253R200.HTM。9月6日アクセス)
 (注6)前1600??前1200にかけて、アナトリア・シリア・パレスチナ・メソポタミアを支配した。衰亡後も、ヒッタイトの都市等はしばらくの間、繁栄し続けた。言語はインド・ヨーロッパ系。(http://www.crystalinks.com/hittites.html。9月7日アクセス)

(私はギリシャ本土(アテネ(二回)・ミケーネ・オリンピア・デルファイ等)、クレタ島、ロードス島、サントリーニ島を訪問したことがあり、古代ギリシャ世界についての基本的知識は一通り持ち合わせていたつもりでしたが、これしきのことをまとめるのに結構苦労しました。私の知識の浅薄さを痛感させられましたが、文献やサイトによって記述にかなりの乱れがあることも苦労した原因の一つです。読者諸賢による、史実面での訂正を期待しています。)

さて、ウィルケンスは、ホメロス描くトロイ戦争の地名と地名の間の距離と方位がむちゃくちゃである、という古来から人々を悩ましてきた問題を、海の民(Sea Peoples)のエジプト来襲(注7)という史実を手がかりにしてついに解決した、と主張したのです。

(注7)前1232年と前1183年にエジプトに来襲した(The Times Atlas of World History, Revised Edition, 1986, PP67)。

まず彼は、アカイア人(Achaean)の’Acha’はラテン語の’aqua’同様、「水」ないし「泉」を意味するとし、アカイア人はすなわち海の民だ、と指摘します。もう一つ、ホメロスのイリアスの中で、ペラスギア人(Pelasgian。海の民という意味を持つ)なる民族がトロイの同盟者の一つとして登場することにも彼は注目します。前5世紀のギリシャ人歴史家のヘロドトスは、ペラスギア人がはるか昔にギリシャにやってきた民族であり、アテネを建設し、町・川・山に名前をつけ、先住民族と混淆し、先住民族の言語を採用した、と記しています。
ウィルケンスは以上から、アカイア人=海の民=ペラスギア人、と断じるのです。
他方、ホメロスがアキレスやヘクトルらの火葬を描いていること、かつホメロスが潮流への言及をしばしば行っていることにもウィルケンスは注目します。
前1200年前後の時点で火葬の慣習があったのは欧州・イギリス一帯ではケルト人だけであり、かつ潮流は大西洋には見られても、エーゲ海には見られないからです。
ここでウィルケンスは、アカイア人とトロイ人は、どちらも大西洋沿岸地方に住んでいたケルト系の人々であり、トロイ戦争はこのケルト系の人々の間で戦われた戦争ではないか。この戦争に敗れたトロイ人のリーダー達がアナトリア半島沿岸部等に逃亡し、勝利したアカイア人の一部もギリシャに移住し、それぞれかつて住んでいた故郷の地名を東地中海地方の各地につけ、かつアカイア人がトロイ戦争を叙事詩として語り継いで行ったのではないか、という仮説をたてるのです。
その上でウィルケンスは、トロイ戦争に登場する地名を大西洋沿岸地方で探し、その結果、地名と地名の間の距離と方位がぴったり符合する地名がガリアとブリテン島を中心とする大西洋沿岸地方に存在することから、アカイア人はガリアの住民、トロイ人はブリテン島の住民であったに違いない、という結論に到達するのです。(ウィルケンスによれば、アカイア人の同盟者はスペイン南部からスカンディナビア半島南部にまで分布していたのに対し、トロイのブリテン島内以外の同盟者はガリア西端の一カ所だけでした。ちなみにアカイア人の総帥アガメムノンの根拠地は現在のパリの南東のセーヌ川沿いであり、名称はトロイ。恐らくトロイ戦争前はミケーネであり、先勝の結果敵の根拠地の地名に改名したはずだというのです。)
そしてトロイは、イギリスのケンブリッジ付近の丘であろうとし、戦争の原因は、青銅器時代には不可欠だった錫を産出するコーンウォール地方の錫鉱山をアカイア人がトロイ人から奪おうとしたからだろうと推定します。
ウィルケンスは更に、マンモスの記したブルートゥスによるブリテン島の征服も史実であったに違いないとし、征服が容易に行えたのは、トロイのもともとの被治者達が喜んで、かつての自分達のリーダーの子孫であるブルートゥスを迎え入れたからだろうと指摘しています。
(蛇足ながらウィルケンスは、トロイ戦争は前1198年に始まり、イリアスは前1160年前後、オデュッセイアは前1155年前後にできあがったと推定しています。)
(以上、http://www.troy-in-england.co.uk/index.htmhttp://phdamste.tripod.com/trojan.html及びhttp://www.troy-in-england.co.uk/trojan-war/trojan-war-0.htm(でメール送付を受けた文書)(いずれも9月4日アクセス)による。)

皆さん、いかがでしたか。
皆さんの間から、新たなシュリーマンをめざし、ケンブリッジの付近で「本当の」トロイの遺跡の発掘に成功する方が出てくるといいですね。

(完)