太田述正コラム#9083(2017.5.9)
<赤毛のアンを巡って(その2)>(2017.8.23公開)
3 戦後日本女性知識人批判
戦後の日本の女性知識人達の元祖的存在と言えば、女性で初めて、東大教授になり<(注5)>、日本学士院会員になり、学術系としての文化勲章受章者、になった中根千絵(1926年~)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%8D%83%E6%9E%9D
でしょうが、彼女は、いわゆる戦後近代主義者達の一人であるところ、結果的に彼女の代表作となった『タテ社会の人間関係』(1967年)での主張は、以下のようなものでした。
(注5)教員どころか、そもそも、戦前は東大は女子学生すら受け入れていなかったが、それは、東大と京大に限った話であり、その他の諸帝国大学では、1913年の東北大を皮切りに、女子学生を受け入れ済みだった。
http://www.morihime.tohoku.ac.jp/100th/rekishi.html
「インドはカースト制で、英国は階級制。同じ階層でつながる機能をもつヨコの関係に対して、日本の社会は常にタテになっている、と。論文では分析する用語として「資格(属性)」と「場」を設定しました。どの社会にも資格と場はあり、インドや英国では資格が重要なのに対し、日本ではどんな職業かという「資格」より、○○会社の構成員という「場」が重視される」
http://www.sankei.com/life/news/141124/lif1411240024-n1.html
ところ、「他の国であったならば、その道の専門家としては一顧だにされないような、能力のない(あるいは能力の衰えた)年長者が、その道の権威と称され、肩書をもって脚光を浴びている姿は日本社会ならではの光景である。」
http://www.e-takahashi.net/reading/reading14.html
これは、普遍的であるところのカースト社会や階級社会・・太田コラム読者なら先刻ご承知のように、イギリスが階級社会であるというのは間違い・・、に対するに、特殊的であるところのタテ社会、そして、(恐らくは、カースト社会は脱落し、)先進社会であるところの階級社会、に対するに、後進的であるところのタテ社会、という自虐的な日本/世界観です。
(本当のところは、その真逆だというのにね・・。)
とまれ、中根の場合は、当時、東大を中心として、丸山眞男に代表される近代主義者達が日本の人文社会学界を牛耳っていた、という時代背景を思えば、情状を酌むべき余地があります。
しかし、ジェンダー論の領域に限らないし、女性にも限らないのですが、いまだに、越智、吉原両名に象徴されているように、日本では人文社会科学の世界は近代主義者が大部分、というのは困ったものです。
(日本は、女性優位/男性差別、社会なのであって、戦前、例えば、選挙権が男性に限られていた、といった一見逆の様相が見られたのは、明治維新以来の弥生モード下において、フォーマルな世界に欧米の男性優位/女性差別的な諸制度が継受されていたからに過ぎません。
そんな日本社会でのジェンダー論は、いわば逆ジェンダー論でなければならないというのに、そんな発想は、恐らく、依然として皆無なのでしょうね。)
こんなことでは、皮肉な見方をすれば、一般の日本人達の、のみならず、占領時代の英米の日本社会観のままであるBBC記事の論調が示しているような、欧米の、日本/世界観ににおける深刻な誤りを是正せず放置することによって、中共当局が追求してきたところの、ステルスでの支那の日本文明継受戦略による、日支を中軸とするアジア復興を実現させると共に、欧米の没落を促進させる、という大陰謀の片棒を、日本の知識人達が意識的無意識的に担いでいる、という誹りを受けても仕方がないでしょう。
4 宮崎駿の描く女性像
ところで、「アニメ[シリーズ(1979年)の]・・・『赤毛のアン』<は、>・・・高畑勲が演出(監督)、宮崎駿が作画スタッフ、としてクレジットに名を連ねた最後の作品となった。
宮崎駿は「アンは嫌いだ。後はよろしく」と述べて『ルパン三世 カリオストロの城』へと去っていった。
しかし、アンのイマジネーション豊かで自然の中で一人で遊ぶのを好むキャラクターが後の宮崎作品のヒロイン達に大きな影響を与えているのは明らかであり、アンを嫌いというのは確実に本音ではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%AF%9B%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%B3_(%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1) (上の[]内も)
という、このアニメシリーズのウィキペディアの記述を読んで、宮崎が「アンを嫌いというのは確実に本旨で」あるはずなのに、何を馬鹿なことを言っているのだ、と思いましたね。
「これまで<ディズニー等の>マスメディアは、王子様とハッピーエンドになる物語や、家庭や恋愛を中心とする物語などで女性を受動的で従順に描く傾向があり、男性に主人公や指導的な役割を多く与えてきた。しかし、宮崎作品においては女性の生き方<は全く>異なる」
http://www.jissen.ac.jp/seibun/archives/contents/etext/gradtheses/2004/Fujita.pdf
ことは、ご承知の通りですが、宮崎の諸作品に登場する女性像は、日本の女性の古来からの理念型に忠実なものに他ならないのであって、断じて『赤毛のアン』の影響を受けたもなのではないからです。
そもそも、『赤毛のアン』は、アンが、「王子様<のような男性>とハッピーエンドになる物語」なのですから・・。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Green_Gables
(どういうわけか、この本の日本語のウィキペディアのプロットの説明文では、この肝心の結末が端折られてしまっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%AF%9B%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%B3 前掲)
宮崎のこのような女性像は、彼の母親から得たものである、と私は想像しています。
。
「兄(宮崎駿監督)が幼いころのことですが、母が7~8年入院してたことあるんですよ。寂しい思いをしたんでしょうね」(弟の宮崎至朗氏談)」
http://kawaiijewelry.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%83%8F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%EF%BC%88%E4%B8%89%EF%BC%89
彼は三人兄弟で私は一人っ子という違い、彼の母親は彼が生まれた後に長期療養し、私の母親は私が生まれる前に(結核で)長期療養したという違い、こそあるけれど、私の母親も、大手術を受けて治癒はしたものの、体は弱ったままで、何もなくても横になっていることが多く、宮崎と私の小さい頃の母親との関係は似通っています。
私の母親が、私によく話をしたのは、自分が丈夫だったら、若い頃同様、バリバリ働いて自活できるようになりたい、ということと、(同じ結核で20代で亡くなった、)私の母親の一番上の兄が優秀で選挙の時は応援演説の弁士として引っ張りだこだった、ということでした。
今にして思えば、私の母親自身に政治家になりたい気持ちが、どこかに少しあったのかもしれません。
宮崎が、やはり、母親から、似たような話をよく聞かされたとしても決して不思議ではありません
だって、まさに、日本の女性達は、古来から、男性達を操縦しつつ、日本の広義の経済活動や政治活動を実質的に担ってきた存在なのですからね。
(完)
赤毛のアンを巡って(その2)
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